2010年2月28日日曜日

BI : ベーシック・インカムに対する覚書(その四)

労働力が余り、元労働者があふれる社会では、イノベーションによって様々な職場が創出されるとはいえ、人々は数少ない「職場」を求めて弱肉強食の争いを続けるか、競争に絶望したり疲れたりして、場合によっては人生そのものから「降りる」という選択をしなければならないのだろうか。正直に言えば、いまの社会の「あり方/制度」のままでいけば、それは現実の姿となると私は考えている。なぜか。いまの社会保障体制にしろ税制にしろ、「ほとんどの人々が働いて富を創出して、それを元手に社会をまわす」という仕組みになっているからだ。そもそも、「働けない人々が多数生まれる」という前提に立っていない。みんなに働いてもらわなければ困るのだ。しかし、生産力が上がり技術が進歩した現在、労働の現場は多くの人手を求めてはいない。いまだに資本の関係で機械化等が進まず非効率的な職場も多いが、それは時間の問題だ。廃業するか機械化/高度化が進み、いずれ労働者の必要数は減っていく。どうしても人間の手が必要な産業や職場だけは残るだろうが、すべての健常者がそこに場所を得るためには、労働人口そのものを均衡点にまで減らさなければならない。幸い、日本は少子高齢化で急速な人口減の社会に向かっているので、案外、上記のようなディストピアの期間は短いかもしれないが。

そうはいっても、上記のような明るいのか暗いのかわからない未来が、いつ到来するのかは誰にも予測できないので、もう少し前向きな話をしよう。後編の今回の話は、かなり個人的な希望や期待をこめて書いてあるので、異論を持つ方も多いとおもう。というわけで、結論から先に書いておこう。

産業労働に従事できる人々、すなわち「多くの富」を創出する力を持てる人々は、社会全体で見れば少数なので、彼らには彼らで存分に働いてもらい、それ以外の人間は、「少数の富」を創出しつつイノベーションに備え、なにより大切な「社会の維持」に努めよう。社会保障体制は、この思想の下に構築されなければならない。

産業労働に従事できない人間は、社会にとって不必要な人間、重荷となる人間なのだろうか。そんなことはあるまい。家族がいれば、親としての仕事/子としての仕事があるだろうし、地域にコミュニティを持っている人々もいるだろう。まあ、「私は仕事一筋で家族も省みずに働いてきた。他には何も無い」という人々も残念ながら多いとは思うが、いまその自覚がある人達は、地域社会等に目を向けてみるといい。企業人として培ってきたスキルのどれかは、きっと役に立つ。昔はともかく現在はコミュニケーションツールも発達している。このブログを読めるスキルと意欲があれば、誰かがあなたの声に耳を傾けてくれるだろう。話を戻そう。疲弊しているとはいえ、我々は産業労働の現場以外にも居場所を持っている。まずは、コミュニティを取り戻そう。あるいは、甦らせよう。地域を基盤とするものにせよ、あるいはもっと範囲を広げるネットワークにせよ、コミュニティは精神の安定を保ち、労働意欲の維持や活性化に不可欠なものだ。誰もが「職場の仕事だけが生きがい、望み、希望」というわけではあるまい。多くは、「家族のため」であり、その未来のためだろう。その家族はどこにいるのだろうか。産業労働の現場だろうか。コミュニティの維持は、労働者にとっても家族にとっても必要不可欠な仕事なのだ。

多くの人々は誤解をしている。地域社会を守ったり維持する仕事は、行政の仕事ではない。NPOやNGOなどの横文字団体のものでもない。一人一人の仕事なのだ。そもそも行政サービスが肥大化する原因は、人々が多くを求めすぎることにある。産業労働による果実にかまけるあまり、地域をないがしろにしてきた我々自身に責任がある。社会を壊したのは、企業社会でも行政や政治でもない。我々自身なのだ。産業労働に従事するチャンスを持たない人は、まずこの仕事に取り組もう。行政の手が届かない様々な場所に足を運び、サービスを提供して適切な範囲で対価を得よう。困っている人々は、なにも高齢者や身障者、子育て中の人などに限らない。労働意欲を持ち、教育訓練を求める人達も多くいる。彼らにスキルを伝える仕事も重要だ。コミュニティというものは、そもそも労働再生産を生み出すための基盤でもある。運悪く産業競争に負けて失業した人々が再挑戦するためにも、その生活基盤や学習基盤の維持は必要不可欠だ。そのことが回りまわって、「誰にでもチャンスのある社会」を作り出していく。そして、こういった活動は行政コストを低減させ、回りまわって、社会資本の原資を増やすことにも繋がるだろう。

しかし、コミュニティの維持や発展も、それに取り組む人々が多くなれば必要性は低下していくだろう。困っている人々が減るのはけっこうなことだが、対価を得る数少ないチャンスも失ってしまう。さて、どうしよう。ならば、再び熾烈な競争社会に身を置いてみてはどうだろうか。といっても、産業社会だけをめざす必要はない。「好きなことを仕事に」という方向のことだ。

正直に言えば、こちらはあまりオススメできない。熾烈な競争を勝ち抜いて職業としてこれを勝ち取れる人は、極めてわずかだ。「そこまでは求めない。わずかな収入でもかまわない」という人も多いだろう。熱狂的な一部のファンを持つバンドが、ライブハウス等で演奏する光景は、けっこうあちこちで見られる。「ふわふわ時間」は私もお気に入りだ。しかし、だ。少数のファンしかつかない、ということは、少数にしか受けていない、ということだ。それだけの価値しかない、ということだ。そこは自覚しておいたほうがいい……と書きながら卓袱台をひっくり返そう。いままでの話は精神論。イノベーションを考えるのなら、わずかな可能性でも果敢に挑戦していったほうがいい。桜高軽音部が武道館にいけるかどうかはしらないし、あなたの「歌ってみた歌」が受けるかどうかはわからないが、挑戦はやめるべきではない。誰の何に価値があるのかは、誰にもわからない。それに、いまはロングテールの時代だ。価値を見出してくれる人がいて、対価が得られるのなら、それは立派な仕事だ。誇りを持っていい。それになにより、その姿勢は産業のイノベーションを生み出そうとする人達にも支えとなるだろう。両者は同質のものなのだから。しかも、現代日本はモノがあふれている成熟社会だ。このような社会では必然的に、モノよりも知財、アイデアなどが高価値を持つ。チャンスだけなら、けして少なくないのだ。あなたの好きなことは、仕事として認められる可能性がある。がんばってほしい。

さて。ここまで読んで、「何が仕事だ。そんな程度のことで生活に必要な対価が得られるものか。夢みたいなことを言うな」と思われた人も多いだろう。私もそう考える。上記の例は、そのどれもが市場価値を持っていないか、極めて低い。まあ、「好きなこと」のほうは価値が出る可能性があるが、コミュニティの再生のほうは、市場価値の創出という点では絶望的だろう。そもそも競争のしようがない。介護や育児にはサービスも競争もあるではないか、という人もいるが、その現状をご存知だろうか。需要があるのに供給が追いついていない。様々な規制の問題もあるが、根本的には、コストが見合わない産業なのだ。需要があっても価格を上げにくく、そのために労働者の所得を増やすことができない。そもそも、産業競争力のあるものなら、規制があっても参入する企業は多いだろうし、規制自体を改変する動きも出るだろう。寡聞にしてそういう話は知らないのだが、どなたかご存知だろうか。話を戻そう。児童の登下校を見守ったり、独居老人を訪ねたり、地域の清掃を行ったりする行為は、社会の維持にとって必要不可欠なことだと思うが、産業競争力の無い仕事ではあるだろう。高賃金にするべきだ、と考える人もいるとおもうが、私は否定的だ。イノベーションを生み出す余地の少ない仕事は、あまり高賃金にするべきではない。それは回りまわって、社会的損失に繋がる。まあ、道路掃除くらいは機械化の余地があるかもしれないが。

必要な考え方は、こうだ。イノベーションを興して経済競争を促しやすい仕事は産業の現場に、イノベーションが置きにくく競争がうまく働かない仕事は、それ以外で。この住み分けが必要なのだ。これは社会を分断することではない。人々は、このどちらにも属しているし、就業と失業の繰り返しが恒常化すれば、その間を行き来することになる。誰もが産業の現場と社会に生きていることを自覚的に捉えれば、社会の維持が産業の維持にとって必要不可欠だと考えるだろう。将来に絶望したり、スラム化が進んでいく環境で、どうしてイノベーションの芽が出てこようか。どうして、活発な経済活動が維持できようか。社会を守ることは経済を守ることであり、経済を守ることは社会を守ることなのだ。社会保障とは、文字通り、「社会を保障する」ものでなくてはならない。人々と社会を守るものでなければならないのだ。経済的な理由で生じる困窮は、誰にとっても損害なのだ。社会にとっても、経済にとっても。対価の見合わない仕事には、必要最小限の保障はしなければならない。それが社会を維持して活性化させる原動力となる。

ところで。「社会保障が必要なことはわかった。しかしそれなら、衣食住を保障すればよいのではないか。なぜ、どんな使われ方をされるかわからない現金を支給する必要があるのだ」と思われたことだろう。これはたしかに異論があってしかるべきで、ベーシック・インカムに限らず社会保障のあり方は、多くの人々が議論をするべきだと思う。次回、予定では完結編になるはずなのだが(笑)、ベーシック・インカムについての私見を書いてみたい。

(続く)。

2010年2月27日土曜日

BI : ベーシック・インカムに対する覚書(その三)

前回の続きから、すこし。「産業社会からはじき出される人達がいても、それは少数ではないのか。その人達だけ手当てをすればよいのではないか」と思われた人も多いと思う。しかし忘れないでほしい。イノベーションが活発な社会というのは、産業の入れ替わりもまた活発なのだ。経済基盤の基幹たるエネルギー産業など、そもそも産業競争と折り合いが悪いというか、へたに競争させると社会的損失が大きい産業はともかく、多くの企業は競争によって利益を得ているし、そうである以上、栄枯盛衰は避けられない。失業というものは本来、「誰にでも起こる問題」なのだ。というか、本来、「失業の可能性を考えなくてもすむ」という状況がおかしいのだ。失業しても能力が高い人間は就業の機会もまた多いだろうが、人材についても市場競争力が求められる時代で、誰が未来を見通せるだろうか。大企業であっても倒産する、という事態を、我々は何度も見てきているではないか。ところで、エネルギー産業もそろそろ、そう安穏とはしていられないんでしたっけ。

それでは、産業社会の安定を破壊するイノベーションは悪なのか。我々は儲かっている企業に儲けてもらい、そのおこぼれにあずかって暮らすだけの生活しか許されないのか。そんなことはないし、そもそも、そういう対立的な思考が問題なのだ、というのが、今回のテーマ。その前編です。

競争が活発に行われ、イノベーションが頻繁に起きることを「悪」と考える人は、産業競争社会に対して否定的な見解を持つ人ぐらいだろう。いや、意外ともっと多いかもしれないが、忘れないでほしい。どんな社会保障体制であれ、自由な経済活動下でなければ原資を生み出すことはできない。社会保障体制を充実させるためには、すくなくとも経済競争が適切な法の下で活発に行われる必要が、いや、それが絶対条件なのだ。我々はしばしば「富の集中」を危惧するが、イノベーションが活発に行われ、市場の長期的な独占が起きなければ、富が集中してもそれは一時的なものだ。富の集中や独占は、産業競争から生じるのではない。富を独占しようとする動きから生じるのだ。それは、イノベーションを否定したり、巨大資本によって競争相手を不当に排除しようとする行為、それになにより「変化を好まない人々」から生まれるのだ。常に新しいプレイヤーが参入し、適切な法の下に競争が行われれば、どんな巨大資本でも倒され、市場から退場する。そういう「あたりまえの光景」を我々は見ているはずだ。あるいは、資本家は儲かっている、と考えるかもしれない。しかし、資本家の財力の中心にあるのは、土地でもゴールドでもない。投資だ。企業が収益をあげれば儲かるが、失敗すれば、すべてはパーだ。不当な株主保護といった問題はあるかもしれないが、それはそもそも法律違反なのだ。常にチェックを怠らず、発覚した場合は懲罰的な償いをさせればいい話だ。土地の価格にせよ、ゴールドにせよ、適切な競争が行われれば、適切な価格に落ち着く。現在の社会は土地やゴールドが、必ずしも資本力を生み出す元とはなりえない社会なのだ。みんな幻想に囚われているのだ。土地もゴールドも持たないが、儲けている人々は少なくないだろう。

さて、イノベーションや産業競争社会について擁護するのは終わりにしよう。本題はここからだ。産業競争を活発化させ、社会を常に活性化させることに必要なものはなんだろうか、それは、「豊かな経済と安定した社会」である。「また、あたりまえのことしか書いてない」と思った人も多いだろう。しかし、だ。我々の社会は、なにか特別な力が働いて動いているわけではない。あたりまえの人が、あたりまえの生活をして、あたりまえの人生を送る、ただ、それだけのことで動いているのだ。処方箋も、「あたりまえのこと」になるのは当然だろう。いまがおかしいのは、「あたりまえのことがあたりまえでないから」おかしいのだ。社会をあたりまえの状態に戻そう。

経済活動というのは、単純に言えば「お客さんにサービスを売って儲け、それを元手にさらにサービスを売る」ということの繰り返しだ。お客さんがお金を持っていなければ、商売は成り立たないし、新しい売り手が商売をはじめようとしても失敗する。お客さんに借金をさせる、という手もあるが、そもそも返せるアテがなければ、それも成り立たない。まあ、バブルというのはその感覚が麻痺することなのだが、あれは誰でも罹る風邪のようなものだ。風邪を恐れてなにもしないのでは本末転倒なので、注意して風邪をひかないように、患った場合は早く治るように健康管理に注意しよう。さて、話を戻して。産業競争の基盤として豊かな経済社会が必要、ということは誰も異論が無いだろう。まあ、発展途上の社会の場合は、「豊かな経済が期待できる社会」ということになるが、本質的な意味は同じだ。誰もが安心してお金を使える社会。それが無くては経済は成り立たない。じつは、多くの人達が、この点を誤解している。

経済の主導権は、産業の送り手である「資本/企業」の側にあるのではなくて、「労働者であり、なにより消費者である我々」の側にある。近代産業の勃興期には、たしかに大資本家が労働者を搾取して暴利を貪っていた時代もあった。しかし、それは過去の話だ。繰り返すが、現代社会は、巨大産業/巨大企業といえど、消費者に見放されれば、経済のプレイヤーの地位から転落する。どんな企業でも安穏とはしていられない。それにあたりまえの話だが、市場が壊滅したり、縮小したりして困るのは、もちろん消費者も困るのだが、企業の側だ。労働者の暮らしの基盤である社会を守る義務は、どんな企業にも課せられる。これは特別な話ではない。欧米で企業の社会貢献度等についてランク付けがなされたりしているのは、この思想に寄るものだ。「社会があってはじめて企業活動がある」というのは、経済社会に生きる限り、どの国にも適用できる考え方なのだ。

ところで、企業は失業した労働者にも金品を渡したり生活を保障したりして、豊かな消費者として振舞ってもらうべきなのだろうか。なるほど、それができれば、その企業に対する社会の信頼も厚くなるだろうし、将来も安泰かもしれない。しかし、ありえないだろう。企業の利益は、労働者に対する報酬等もさることながら、さらなる企業活動の原資として使われるものだ。多少は失業対策にまわせるかもしれないが、産業競争の結果によって生み出される、多くの「元労働者」を救う力はない。労働者は労働者で、それなりになんとかしてもらわなければならない。さて、産業の新陳代謝は、失業者だけを多く生み出すものなのだろうか。

労働力は余る傾向にある。これが「残酷な私のテーゼ」だ。現代の企業では、「少ない労働者で多くの生産性を生み出す」ことを至上命題としている。社会貢献を考えて多くの労働者を雇うことを考える経営者もいるかもしれないが、それでも利益の範囲内だろう。経済全体から見れば誤差にもならないと考える。しかし、ここで注意してもらいたい。私は「労働者が余る」とは書いていない。「労働力が余る」と書いているのだ。この違いが意味するものは何か。答えは、イノベーションと産業の新陳代謝だ。

単純な話ばかりで恐縮だが、これも単純な話なのだ。多くの産業が消滅し、多くの産業が勃興すれば、その都度「必要とされる労働力/労働者は変化する」のだ。誰にでも働くチャンスはあるのである。というか、労働者の教育コストもバカにはならない。既存の産業の置き換え、たとえば、飲食業の起業なら、既存の業界からスカウトするか、潰れた店から経験者を雇うほうが教育コストは少なくてすむ。現代の産業はマニュアル化が進み、業種が似ていれば、驚くほど似たようなオペレーションになることが多い。そもそも、「わが社のやり方」などと言っていては、競争に負けてしまうのだ。イノベーションも重要だ。まったく新しい産業が興れば、いまの話とは逆に、これまでの常識が通用しなくなる。既存の報道産業の多くがネット時代に適応できず、苦労している様を見た人も多いだろう。イノベーションが興り続ける限り、我々は常に新しい社会に挑戦し続けることができるのだ。

しかし、だ。そうはいっても、イノベーションの波にうまく乗れない人達もいるだろう。チャンスが回ってくるまで待つしかない人も多いことだろう。そういう状況に対して、社会や、なにより我々はどのように考えなければならないのか、というところで、ようやく話はベーシック・インカムなどの「社会のあり方」に入ります(続く)。

2010年2月26日金曜日

BI : ベーシック・インカムに対する覚書(その二)

ベーシック・インカムに対して否定的な人は、しばしば「働かなくても暮らしていくことができるようになれば、人はけして働こうとしない」あるいは、「健常者なのに働こうとしないのはおかしい」といった意見を述べることが多い。労働に対するモチベーションの問題は、たしかに頭の痛い問題だが、すこし待ってほしい。現在の社会には、「働く意思と意欲があっても働けない人」という人々が、けして少なくない数で存在する。これはどういうことなのだろうか。

生産物の過剰とかオートメーション化の問題とか、まあ色々と論はあるが、もうすこしわかりやすい話をしよう。「働けない人」というのは、「企業が求めるだけの労働力/必要とする資質を持たない人、あるいは、人員として必要ない人/余る人」なのだ。ようするに、「使えない人/必要ない人」ということである。なにをあたりまえのことを、と思ったことだろう。しかし、根本的な問題はここにある。

我々の社会は、たとえば日本では、戦後の復興期から現在まで、たゆまぬ努力を続けて産業競争力を高めてきた。現在もそれは続いている。未来永劫続くかどうかはわからないが、すくなくとも当分の間は続くだろう。これから産業の発展期にある社会は少なくないのだから。ベーシック・インカムに限らず社会保障の原資となるものは、経済力/経済発展によってもたらされる。である以上、どのような社会保障体制を求めるにせよ、それは経済発展に寄与するものでなければならず、まかり間違っても、経済発展の足をひっぱるものであってはならない。経済至上主義に違和感を持ち、ベーシック・インカム等に賛同する人達も多いと思うが、経済が発展しなければパイは増えない。パイの増えない経済は、いずれ破綻する。人類は愚かではないが、残念ながら賢明でもないのだ。

経済を発展させるためにはどのよう社会を構築すればよいのだろうか。企業の生産活動を促し、市場の求めに応じてサービスを行い、それを果たせない産業には速やかに退場してもらう。イノベーションを活性化させ、常に産業の新陳代謝が行われる社会。いまどきなら小学生でもこう答えるだろう。社会の現場にいれば、なおさらだ。さて、特に社会人として日々の仕事に勤しむ人達に問いたい。あなたの職場で、あるいは取引先で、あるいはサービスを受ける場で、「使えない人とは言わないが、仕事にあまり寄与していない人」という人達を見たことはないだろうか。私はある。というか、私自身がそう評価されたことがある(苦笑)。会社の収益が順調であれば、そういう人達にも居場所や仕事はあるだろう。しかし競争によって収益の向上を求められたり、仕事そのものの内容や技術の向上が求められたとき、果たしてその人達の仕事や居場所は残されているのだろうか。

経済を発展させるための競争というものは過酷だ。企業に余裕があれば企業内教育等を使って、労働者の能力を向上させることも、あるいはできるかもしれない。しかし、誰もが同じ能力を持たないように、誰もが企業収益に常に貢献できるわけではない。労働組合は労働者の働く権利を守るために活動することを使命としていて、それはそれで必要なことだが、労組の力が強すぎる企業が、市場からどのような扱いを受けているのか、我々は知っている。労働者の権利を守るために、どれだけ税金を投入してもかまわない、と考える人達は、かなり少数なのではないだろうか。あなたはどうだろう。

「いや、それは労働市場が硬直化しているためなのだ。正社員も含めて労働力が流動化すれば、産業発展を維持しつつ、労働者の権利も守られる」という人達もいるだろう。個人的な言い方を許してもらえば、「おめでたい」と言いたい。大企業ならともかく中小企業の多くでは、無駄な労働力というものをは、ほとんど無い。基本的にギリギリの労働力で維持されているのが現状だし、競争力が低下すれば、容赦なく解雇が行われる。譲って正社員の雇用を守るために努力していることを認めたとしても、その企業に待っているのは、倒産だ。日本の企業の大半は、じつは中小企業で占められており、倒産や起業によって、それなりに人材の流動化は起きているのだ。硬直化している方が一部なのだ。

とはいっても、労働力の流動化そのものは悪くない。むしろ必要なことだ。産業競争力の無い企業に人が残り、新しい産業に労働者が移動しないのは、誰にとっても損失だ。問題になってくるのは、「労働移動」のほうなのだ。人間は極めて適応能力が高く、その気になれば様々な状況に対応できる。労働集約型産業、早い話が製造業が中心であった時代には、人の数はそのまま生産力に繋がった。産業技術が高度化していっても、イノベーションによって新規産業が興り、新しい労働力として「人手」が要求されてきた。この繰り返しで産業は発展してきたのだが、果たして、これは未来永劫続くことなのだろうか。たしかに、産業技術は発展し続けるだろうし、新規産業も起き続けるだろう。しかし、「人手」はどうだろうか。製造産業どの分野にも言えることだが、「より少ない人数で、より多くの生産を」という要請が基本なのではないだろうか。加えて、現在の社会はかつて発展途上国とされていた国々が産業化し、日本の後を追っている。生産能力は日々向上し続けるわけで、ますます労働者の仕事は減っていく。

「製造業はアウトッ!これからはサービス業の時代だっ」という人も多い。私も同意見だ。先進諸国の実情を見ても、従来型の成長戦略にこだわり続けるのは得策ではない。ところで、サービス産業というのは、多数の人間がオペレートしなければならない仕事なのだろうか。

長年、製造現場や一次産業に従事してきた人達が、すんなりとサービス産業に移行できるとは考えにくいのだが、人間の向上心はすばらしいのでそこは考えないでおこう。明日からバリバリOSのコードを書いたり、マクドナルドでスマイル以外を売ったり、ファミリーレストランの厨房に立つ人が増えるとしよう。雇用問題は解決だ。ところで、それらの産業のパイは、他の産業から移行してきた労働者に十分に行き渡るものなのだろうか。

サービス産業は労働集約型産業よりさらに「少人数によるオペレートで利益を上げる」構造になっている。製造業にくらべて労働生産性の低さが指摘されている日本のサービス産業だが、国際競争力が激化し、IT化が進む昨今、その指摘は過去のものとなるだろう。ならない企業は廃業/倒産するだけだ。たしかに、サービス産業は消費者の多種多様な要求を満たすものであり、それゆえに多数の種類が社会に存在することになる。すべてがユニクロで占められるわけでもなく、消費者はスターバックスしか飲まないわけではない。しかし、消費者の財布には限界があり、その欲求にも限界がある。当然、すべての企業が生き残れるわけではない。むしろ新陳代謝はどの産業よりも激しい。新陳代謝自体は望ましいのだが、産業が入れ替わる間、労働者はどこに行けばよいのだろうか。それに忘れないでほしい。そもそもこの産業は、他の産業からの流入者を受け止めるだけのパイがあるのだろうか。

あるいは、「低賃金労働市場は多数あり、それは常に人員不足なのだから、そこに行けばよい」と考える人もいるだろう。しかし待ってほしい。なぜ、その企業は「低賃金でしか人を雇えない」のだろうか。売り手市場なら賃金は上がるはずだ。たしかに福祉分野等は様々な規制のために賃金の改善は難しいのかもしれないが、それ以外にも低賃金労働は多数存在する。その賃金で働く外国人労働者も多い。なぜか。それは、賃金を上げればコストが見合わない、つまるところ、産業競争力が低いか無いために低賃金なのだ。そんな企業は長続きはしない。いずれ国外に仕事を取られるだろう。譲ってそれらの企業が残ったとしても、パイの問題は同様に残る。むしろ、低賃金労働にしか移行先が無くなれば、それすらも買い手市場になるだろう。

海外市場に期待を抱く人も多いだろうが、ちょっと考えてほしい。産業化が進み経済が発展しつつあるかつての発展途上国は、いまも資源や原材料/食料の輸出を経済の基盤に置いているのだろうか。違うだろう。彼らは彼らで産業競争力のあるサービスを生み出し、それによって富を得ているのだ。海外市場というのは顧客であると同時に商売敵なのだ。それに、その土地でサービスを展開するとき、日本の社員を教育して送り出す場合と、現地の有能な人員を雇う場合と、どちらが低コストで合理的だろうか。むしろ、日本人にこだわることのほうがリスキーな結果を生みはしないだろうか。日本流が通用するのは日本国内だけなのだから。

そろそろ締めよう。結論は単純だ。労働力は余る傾向にある。教育の効果について、私はかなり甘い評価を下してきた。現実には、新しい仕事になじめず続けられない人も多いだろう。譲って職業教育が効果をあげるとしても、親元から離れられないなどの様々な理由で、職場や職業を選択できない人も多いだろう。専門性の高い職業は、そもそも競争が激しい。能力があっても、その職につけない人達も少なくはない。繰り返す。労働力は余る傾向にあるのだ。人口減少が進み、均衡する点にまで至ればあるいは改善する問題なのかもしれないが、それがいつなのかは誰にもわからない。

これは、どのみちやってくる問題だ。ベーシック・インカムの有無は関係ないし、経済発展を否定すれば、むしろ早まる話なのだ。いや、正確に言おう。「いまここにある危機」なのだ。「働かないことが問題」になるのではない、「働けないことが問題」になのだ。

暗い話で終わったところで、次はもう少し夢のある(かもしれない)話です。

2010年2月25日木曜日

BI : ベーシック・インカムに対する覚書(その一)

先日、ニコニコ生放送で放送された「朝までニコニコ生激論『ベーシックインカム(キリッ』」に関連した議論が Twitter 上で続けられている。というか、ベーシック・インカムについての議論が熱く盛り上がっているといったほうが正しい。それだけ関心の高い話題だということは、ベーシック・インカムの実現を期待するひとりとしては、喜ばしくもあり、また心強い。

しかし、まってほしい。ベーシック・インカムは果たして、理想的な制度なのだろうか。制度設計にもよるが、「最低限所得保障」という日本語があてられているように、これは基礎的な所得を保証する制度に過ぎない。個人的な言い回しになるが、「経済的な問題が理由で死ななくてもすむ保障」でしかないのだ。ここで憲法25条を参照しよう。

1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

ベーシック・インカムの支給額については、一部の試算では、「ひとりあたり月額5-7万程度」と考えられている。この試算が妥当か否かはさておき、政治的な説得や財源確保の問題を考えたとき、「生活のすべての要求を十分に満たせる額」というのは、夢物語に過ぎないことは論を待つまでもないだろう。しかし一方で、あまりに小額であれば、「最低限度の生活を保障する」という理念、そして現実的な要請に反する。これはどのように考えるべきなのだろうか。

ベーシック・インカムは最低限の所得を保証する。逆に言えば、「最低限の所得しか保証されない」のである。憲法25条にある権利をすべて満たす力は、はっ きり言ってベーシック・インカムには無い。あたりまえのことだが、ベーシック・インカムも制度のひとつにすぎない以上、その力が及ぶ範囲は限定的だ。それ 以外の制度や考え方が要求されるのだ。それでは、必要とされる最低限の保障とは、果たしていくらなのだろうか。

医療保障や障害者保障など、そもそも身体的な問題を持つ人々についてはベーシック・インカム以外にも保障制度が維持される、というのが前提なので、ここではあくまで健常者を対象に考えよう。単純に考えれば、生存に必要な生活空間の維持費(光熱費なども含む)と栄養学的に十分な食費が維持されれば、すくなくとも餓死はしないだろう。最低限度の医療保障もつけよう。これなら、そう簡単に死の危険と隣り合わせになることは無い。さて市民、あなたは幸せですか?

ありえないだろう。カプセルホテルか四畳半アパートに篭って三度のメシが保障される。でもそれだけの生活。対人恐怖症でも患っているのならともかく、健常者がこんな生活で満足するはずがない。好きなことをやって暮らす? いまギリギリの生活を強いられているならともかく、可処分所得が残る生活なら、好きなことに使える金は出るでしょう。それでは足りない、という人は、けっきょくガムシャラに働くしかない。いまとどこが違う。好きなことを仕事に、という人は夢をみないほうがいい。いま市場価値が認められていない行為は、「人の意識が変わらない限り」仕事としては認められない。価値を認めてもらえないから、お金が回ってこないのだ。最低の保障で生きていくことに意義を見出せる「強い人」しか、最低の生活を維持し続けることはできないのだ。

健康で文化的な生活を送りたいのであれば、それに向けて努力するしかない。国家の役割は、それを後押しすることなのだ。あるいは、阻害する要因を取り除くことなのだ。貧困は、その最大の阻害要因のひとつだ。ベーシック・インカムは貧困の撲滅には寄与するだろう。しかし、それだけでしかない。社会を良くしたいのであれば、考えることは数限りない。

(まだ少し続きます(CV:亀仙人))