2010年3月22日月曜日

BI : 覚書のついでに考えたこと(その六)

今回はベーシック・インカムを巡る議論で、なぜかあまり語られないこと。といっても、そんなに難しい話ではありません。「ベーシック・インカムの支給額って五万から七万だろ。そんな金で暮らしていけるわけがないwww」という、あたりまえの話。

覚書を読んでいただければわかる話ですが、私はベーシック・インカムを成立させる前提として社会生存コストの低減を主張しています。衣食住のうち、食と住居にかかる費用を大幅に低減させることを考えています。というか、これが何らかの手段で実行できない限り、ベーシック・インカムの理想は絵に描いた餅でしかない。生存にかかるもっとも基本的なものが、少ない費用で提供されない限り、ベーシック・インカムが施行されたとしても、いまと状況はまったく変わらないでしょう。これは断言してもいい。方法は色々とあります。バウチャーという手段でも食事クーポンという手でもいい。この部分にメスを入れない限り、すくなくともセーフティーネットの改革案としてのベーシック・インカムは成立しません。

たしかに、ベーシック・インカムで期待されている最低保障額でも、なんらかの集団生活を行えば生存は可能です。というより、むしろ集団生活を基本とした社会構造に移行するべきでしょう。ベーシック・インカムはそれを後押ししてくれます。ではなぜ上記の改革が必要なのか。

答えは単純です。必ずしも集団生活が可能な人ばかりではないからです。というより、家族という形態以外で、自発的意思で集団生活に移行する人のほうが稀でしょう。職業的な理由からや、なんらかの事情から集団で暮らしている人も、いつまでもその状態を維持し続けているわけではないでしょう。家族ですら、必ずしもその形を保っていられるわけではない。集団生活のほうが安く生きていけるとしても、あるいは有利だとしても、人は必ずしもその形態を取るわけではない。もしその選択が一般的なら、独身者用家屋はルームシェアが基本になっているでしょうし、いまよりももっと、二世代三世代住宅が多くなっているでしょう。

主張が矛盾しているのではないか。そう考えた人も多いでしょう。はい、矛盾しています(笑)。繰り返しますが、私は集団生活を推奨しています。だからといって、多くの人がその選択をするとは考えていません。主張は主張、現実は現実。この見極めをしなければ、まっとうな主張とは言えないでしょう。

社会生存コストの低減は、一人で暮らしていく場合にかかる費用を下げます。これは言葉を変えれば、暮らし方の選択肢を多くすることでもあります。経済的な有利さを求めて暮らしのパートナーを求めてもいいし、あくまでも自由を求めてもいい。生存コストが下がった分を消費に注ぎこんでもいいし、学習に費やしてもいい。それに集団生活には難点もあります。必ずしも利害の合う相手ばかりではない。家族でも暮らしにくいと感じる人達はいます。まして、他人同士が経済的な理由だけで結び続けるのは難しい。経済的なことが理由で意に沿わぬ関係を続けるのは、むしろ不幸な状況と呼べるのではないでしょうか。

あたりまえの話ですが、ベーシック・インカムで社会の諸矛盾が解決するわけではありません。経済的な問題でも、そうでしょう。ベーシック・インカムでは解決しない問題も、ベーシック・インカムで起こりうる問題も、同時に考えていかなければならないのではないでしょうか。

2010年3月15日月曜日

社会 : 非実在青少年規制について考えたこと

すでにご存知の方も多いかもしれませんが、東京都で「東京都青少年健全育成条例改正」について、リアル/ネットを問わず、議論が沸き起こっています。詳細は、まとめサイトをご覧ください。このような東京都の動きについては、正直、「またか」という半分あきらめに近い気持ちを抱いてしまうのですが、これはこれで社会に生きるうえで必要なコストかもしれません。今回はそういう話です。

健全、という言葉に、私達はポジティブな印象を持ちがちです。規制に反対する人達でも、「社会が不健全であれば良い」などと考える人は、少数でしょう。ほとんどの人は、「恣意的、一方的な解釈を基準として、健全/不健全が決められる」ことに反対を表明しています。健全、不健全の意識は個々人に属するもので、誰にもそれを決めることはできない。多くの人が某かを「不健全なもの」と考えたとしても、後の歴史では逆の判断をされる可能性がある。反対派の多くはこの論理で反対をされています。私もまったく同意見なんですが…

それなら、「健全/不健全」という言葉は意味を持たないのではないでしょうか。人によって解釈が異なるのなら、その対象は「健全でも不健全でもないもの」ということになります。この世の中には、「健全なものは無く、したがって不健全なものも無い」と言ったら、あなたはどう感じるでしょうか。違和感を持ちますよね。当然です。「その対象とするものが健全であるといわれても、私は不健全と感じる」と思うでしょうし、その逆もあるでしょう。結局のところ、健全なもの、不健全なものをという「実体」はどこにもなくて、ただそこにあるのは、それを「健全と感じる意識/不健全と感じる意識」だけではないでしょうか。規制をめぐる闘争の本質は、けしてマテリアルをめぐってのものではなく、この「人の意識」をめぐってのもの、と言えます。あたりまえのようで、意外と見落とされがちな話が、これです。

私達は規制を考えるとき、実体を伴ったもの、具体的にはコミックや小説、映画や音楽といった「実体」にばかり目が行きがちですが、ほんとうの「敵」は、それを「敵視する視線」だということを忘れてはいけません。まあ、これは規制される側にいる人達にはわりと自明のことですが、規制する側の人は、それを見落としがちになっていることが多いので、ご注意ください。意識的にそれをされても困るんですが(苦笑)、無意識なものは、もっと困ります。

価値観と価値観の対決に終わりはありません。都知事が変わったとしても、どこか別の県に出版社等が移動したとしても、この問題は消えることはないでしょう。「我々の戦いはこれからだっ」と叫んで打ち切りになるのであれば、どんなにかよいのですが。

2010年3月12日金曜日

社会 : ライフログの有効活用

ライフログという言葉をご存知でしょうか。自分達の日々の暮らしや行為を、デジタルデータに残して記録したものです。といっても難しく考えることはなくて、ブログに日記をつけたり、Twitter でつぶやくことでも、立派なライフログになります。将来的には身体の健康状態をモニターして、それを定期的に医療機関等に送信するような行為も、そう呼ばれるかもしれません。まだしばらくは未来の話でしょうが。今回の話は、そこまで未来の話ではなく、我々が日常的に残している記録を、もっと有効に使えないか、という話です。

わかりやすいであろう例として、介護サービスを例にしましょう。家庭で訪問介護を受けたとします。その際、ヘルパーの方のサービスに不満が残った。不満があっても、ヘルパーに気兼ねして、それを伝えなかったとします。相手に気兼ねして不満を伝えられない、というシチュエーションは、わりと理解しやすいと思います。さて、それを自分の胸のうちだけにしまっておかないで、いまだったら Twitter でつぶやいてしまった、という行為になったとしましょう。それを読んで、みなさんはどう感じられるでしょうか。

わりと起きやすい事例としては、介護サービスに対して不満を持った経験のある人々が賛同して、その話で盛り上がる。逆に、「ヘルパーも大変なんだから不満を持つなんておかしい」という意見が盛り上がって、最悪、炎上になる。だいたい、このどちらかの展開になることが多いと思います。しかし、すこし待ってください。

ヘルパーに問題があったのか、介護を受けた人に問題があったのか、この例では判別できません。つぶやきが詳細なものなら、あるいははっきりするかもしれませんが、それを相手に伝えて終わり、でいいのでしょうか。すこし、もったいないと思います。

対人サービスというものは、技能を伝えるということが思いのほか難しい、という特徴を持っています。言語化、マニュアル化されていない「知恵」が多く、経験がものを言う世界です。それに相手があって成り立つ仕事ですから、千差万別、なかなか「これでよし」という最適解は得にくい。なんとかできないでしょうか。

そこで、最初のライフログの話に戻ります。自分の受けたサービスについての感想を残し、それを様々な人に見てもらうことで「参考例」として残す。それを読んだ人が感想や経験を語り、それをまた「参考例」として残す。この積み重ねを用いることによって、かなり詳細なデータベースの構築が可能となるのではないでしょうか。いわゆる、集合知という奴です。

まあ、現実にはかなりリテラシーを要求する行為なので、なかなか実現までの道のりは遠いと思います。ただ、「人の経験や不満を糧とする」という姿勢で臨めば、文面から読み取れるもの以上の知恵は得られるものです。ただ、相手の気持ちに賛同したり反発したりするだけでなく、そこに至った経緯にも視点を向けてみることで、もっと豊かなコミュニケーションが可能となるのではないでしょうか。

2010年3月11日木曜日

BI : 覚書のついでに考えたこと(その五)

今回は住居の話です。

覚書のときにも提言というかアイデアのひとつとして書きましたが、私は「国民皆住居」を理想としています。国民全員に国家が住居を保障する、という制度です。持ち家を推奨している現在の制度とは、真逆の考えです。これにはいくつか理由がありまして、覚書のときには長くなるので書かなかった点について、今回書いてみたいと思います。

ひとつには、なんらかの理由で住居空間を失った人達に、それを提供することを目的としています。災害や失業で住居を失う人達の姿は、誰でも見たことがあるでしょう。経済的にも疲弊しているであろう方たちを救うのは、国家の義務だと考えます。であるならば、常にそれに備えておく制度は必要でしょう。これは理解しやすい話だと考えます。しかし、それだけではありません。問題はここからです(笑)。

そもそも住居というのは、なぜ必要なのでしょうか。あたりまえの話ですが、生活のもっとも基盤となるものであり、それが無い場合は生存そのものに重大な危機が訪れる可能性があるためです。ホームレスでも常に路上にいるわけではなく、どこかに雨風をしのげる場所をみつけ、そこに集うでしょう。なんらかの形で住む場所が無ければ、行政のサポートも受けられません。国民の誰もが絶対必要としているものであるなら、それを提供する義務は国家にある、と私は考えます。生存権を保障しているのであれば、その基盤の整備を行うことは当然でしょう。住める場所が無い、などということは、そもそも文明国としておかしいんですよ。

もうひとつ。これはけっこう異論を持つ方も多いとおもいますが、私は「住居を持つ/持たないという選択については、誰でも自由であるべきだ」と考えています。基礎的な住居空間を国家が保障し、そのうえで「持ち家」を持つかどうかは、個人の選択に委ねるべきだ、という考えです。よく考えてみてください。いま現在、家屋なりマンションなりを購入するという行為は「一生の買い物」と呼ばれるほど、高価な選択になっています。労働に費やす年月のほとんどをローンの支払いに使ってしまう。それでも数代に渡って利用できる住居ならまだいいんですが、かなりのものが、せいぜい二世代も持つか持たない代物だったりします。こんなものを財産などと呼べるでしょうか。

持ち家の問題は他にもあります。ローンの期間が長すぎるために、途中で職場が倒産したりリストラが行われたりすれば、とたんに経済的に大きな問題が生じることです。現実問題、ローンの支払いが困難になったために住居を手放す人達は数多くいます。経済競争が激しくなり、企業の存続が必ずしも約束されるものでなくなっている現在、住居購入の判断は、かなリスキーと言えるでしょう。それでも持ち家を持ちたい、と考える人はそれでもいいでしょうが、すくなくとも、国家政策としてそのようなリスクの高い道に国民を誘導することは、問題がある、と私は考えています。

あるいは、持ち家という選択がリスキーであるという意識が広まれば、自然と人々は賃借住居を選択するようになる。そうすれば競争原理から賃借価格も安くなる、と考える人もいるでしょう。私もそれが自然な流れだと思います。現実にも、そういう流れになっていくのではないでしょうか。ただ、住居空間というのは、最初に書きましたが、生存にとってかなり重要な意味を持っています。最低生存保障のひとつとして、国家がこれの提供に尽力することは当然のことだと考えますが、みなさんはどのように考えられるでしょうか。

ぶっちゃけ言ってしまうと、「民業圧迫だ。不動産収入や賃借収入で暮らしている人達をどうする気だ」と言われるのは覚悟しています。ここがこの話の最大の弱点でして(苦笑)。なにかうまい方法がないものか、とりあえず納得してもらえる方法がないか、という点が今後の課題です。

最後にひとつ。公営住宅があるのでは、と思われるでしょうが、あれは足りません。足りないだけでなく、入居条件が以外に厳しく、そう簡単には利用できない制度になっています。必要とする人達の元に届かない社会保障制度なんですよ。まあ、必要な人達の下に届かない保障、というのは、住居に限った話ではないですが。

2010年3月8日月曜日

Bi : 覚書のついでに考えたこと(その四)

ベーシック・インカムを否定する意見として、わりと賛同を得やすいものに「働かなくても収入が保証されるのなら、働く人が極端に減る\誰も働かない」というものがあります。現実的な制度設計を考えたとき、この意見には無理な点があって、それは、「誰もが豊かに暮らせるほどの支給額を賄うことは財政的に無理がある」という点です。なるほど、ベーシック・インカムの理想はたしかに「労働からの解放」を謳っていますが、それはあくまで理想論であって、現実の政策としてそれを実現するのは、かなり未来の話でしょう。現実にはほんとに「生きていくのにギリギリの支給額」になると考えます。まあ、これにも抜け道があって、個々人の支給額が低くても集団生活をすれば、けっこうな額を「共有」することが可能ですが、それはそれでもOKだと思います。共同生活を円滑に運営するためには、必然的にコミュニティを形成しなければならなくなり、助け合って暮らしていくことが常態となる。社会生存コストを劇的に下げるためには、コミュニティの再生が不可欠ですから、むしろこの方向は望ましい。

そうは言っても、コミュニティ内部の暮らしで満足されて、労働意欲がまったく無くなるのも困った話です。ところで、なぜ労働意欲が低下したり、無くなったりするのでしょうか。

仕事というのは苦しいもの、辛いもの、という意識は、わりと根深く社会に蔓延しています。ベーシック・インカムが「労働からの解放」を謳うのも、この意識を踏まえてのことでしょう。これは労働に魅力が無いことを意味しています。たしかに、「私達は労働の奴隷として暮らしている」と考える人にとって、働かなくても暮らせるのであれば、積極的に働こうという意識は生まれないでしょう。貧乏な生活でも満足しよう、と考えるのも無理からぬことです。誰も辛い暮らしをしたいとは考えませんから。

しかし、よく考えてください。これはようするに「みんな嫌なこと、辛いことを我慢しながら生活している。それが人生だ」と言っていることになります。労働が必ずしも「嫌なこと、辛いこと」だとは私は考えませんが、今回はそれは別論として置いておきます。嫌なことや辛いことを行うことは、極めて非効率的です。そもそもモチベーションが沸きませんし、働く気のない人間の仕事が、精度が高いわけがありません。そもそも論を言えば、そういう仕事があったり、改善されていないことは社会的損失でもあります。

もちろんここで、「労働というのは辛いことばかりではない。嬉しいことや誇りとすることもある。両側面があるのだ」と考える人も多いでしょう。まったくもってその通りで、どんなことにもプラス面マイナス面があります。だから、我々は労働を続けられるわけなんですが、一方で、私達はそれを伝えているでしょうか。自分の仕事のどんな部分が楽しいのか、あるいは社会の役に立っているのか、誰に喜ばれているのか。あるいは、こう言い換えましょう。私達は自分の仕事のどこに喜びを感じて仕事をしているのか。意外とこの点について無自覚であったり、考えたことのない人が多いのではないでしょうか。すくなくとも私は、「暮らしていけるのなら働かない」と考える人達は、このことに無自覚であろうと考えています。

まあ、たしかに「これはどう考えても奴隷労働と大差ないだろう」と思える仕事も世の中には多いわけで、それはそれで改善していかなければならない問題です。社会にとって不必要なものなら無くなってしかるべきですし、必要な仕事であれば、労働者の待遇改善は喫緊の課題でしょう。これはベーシック・インカムとは関係ない話ですから、直接利害が関係しない限り、誰にでも賛同してもらえることだと考えます。だいたい、必要不可欠な仕事についている人の労働意欲が低いなんてことは、誰にとっても損失なんですよ。

すくなくとも、「労働は辛いばかりではなく、楽しい面もある」と考える人がほとんどになれば、労働意欲の減退には一定の歯止めがかかるでしょう。労働環境の改善は、産業競争力を発展/維持する点でも、必要不可欠なことなんですよ。おかしな労働は改善していきましょう。

2010年3月7日日曜日

社会 : いつまで未来を蝕み続けるのか


正直な話、こんなブログを読んでいる時間があったら、この紹介記事を多くの人達に広めて欲しいと思います。悲惨とか可哀想といった「お涙頂戴」で考える話ではありません。私達は未来を潰している現実と向き合わなければいけない。

少子高齢化が進む日本で、これからの時代を担う若人は「すべて文字通りの意味で金の卵」と言えるでしょう。彼らに成長してもらい、日本を支えてもらわなければ、未来は無い。いまの経済状況では、安くておいしい卵(若年労働力)はありがたいかもしれません。しかし、親鳥になるはずの卵を食べてしまっては、将来飢えるのは、自分自身なのです。

2010年3月6日土曜日

Bi : 覚書のついでに考えたこと(その三)

労働の喜び、というものを、みなさんはどのような時に感じるのでしょうか。お客さんに喜んでもらったとき、上司に褒められたとき、チームの仲間と仕事を成功させたとき、目標となる成果をあげたとき、形は様々ですが、ようは「仕事で成果を出したとき」に労働の喜びを感じる、という点では共通しているでしょう。では、それが労働の喜びのすべてでしょうか。もちろん違いますよね。給与を貰ったときにも、労働の喜びを感じる人がほとんどでしょう。自分の仕事が認められている、と感じるのは、むしろ給与の額が上がったりボーナスの額が増えていたりするときではないでしょうか。それはなぜかといえば、一番わかりやすい指標となるからです。お金がすべてではない、と考える人でも、報酬の額に色がつけば、やはり「認められている」と実感するでしょう。逆に言えば、お金以外に私たちは、「労働の価値を認めるわかりやすい指標を持っていない」ということです。お金が指標としてわかりやすすぎるから他のものを産み出していないのか、あるいは、お金以外に指標となるものが存在し得ないのか、それはまだわかりませんがしかし、「いま現在、お金以外にわかりやすい指標はない」という事実は重要だと考えます。

ところで、労働意欲を刺激するために、「高い報酬額を約束する」という行動は、どういう意味を持つのでしょうか。その人の能力を認めたうえで、より高い能力の発揮、利益の創出/確保を期待する、ということでしょう。評価と期待の両側面を持っているわけです。これは、額は違いますが能力給等にも適用できる話です。評価と期待のバランスが取れていれば、人は利益もさることながら、良い評価を得ようと必死になって働くでしょう。金額の多寡よりもむしろ、認めてもらうという実感を求めて、かんばる人も多いのではないでしょうか。

この認識は重要です。人は評価されている、期待されている、と感じるときに労働意欲が増す。そしてそれには、「わかりやすい指標が必要」ということ。このどちらが欠けても、労働意欲を持続させることは難しいはずです。「誰にも認められなくてもコツコツと何かを作り続ける人もいる」と考える人もいるかもしれませんが、その人は「労働意欲」とはべつの原理で動いているのだと考えます。それにそもそも、そういう人達は少数でしょう。あるいは、「無報酬労働でもがんばる人達もいる」と考える人もいるかもしれませんが、注意してください。私は「わかりやすい指標が必要」と言っているのです。その人達は金銭以外の、自分達にとってわかりやすい指標を持っているんですよ。

正直な話をすると、私はベーシック・インカムなどが行われても、それだけで低賃金を余儀なくされている、特に介護や保育のような仕事に人々が労働移動を行うのか、はなはだ疑問です。賃金をあげることで労働意欲を上昇させることが難しいこの仕事は、それ以外の手段で労働意欲を担保する必要があります。人々の笑顔や感謝は、たしかに嬉しいものですが、それだけに頼るのは、あるいはそれだけを重視するのは、なにか間違っている気がします。とはいっても、私も「これだっ」という回答は出せません。みなさんにも考えていただきたいと思います。

労働意欲は、「私は認められている、期待されている」と感じるときに、強く産み出されるものです。私たちは、金銭の多寡以外に、この指標となるものを産み出す時期に来ているのかもしれません。それも、わかりやすいものを。