2010年3月22日月曜日

BI : 覚書のついでに考えたこと(その六)

今回はベーシック・インカムを巡る議論で、なぜかあまり語られないこと。といっても、そんなに難しい話ではありません。「ベーシック・インカムの支給額って五万から七万だろ。そんな金で暮らしていけるわけがないwww」という、あたりまえの話。

覚書を読んでいただければわかる話ですが、私はベーシック・インカムを成立させる前提として社会生存コストの低減を主張しています。衣食住のうち、食と住居にかかる費用を大幅に低減させることを考えています。というか、これが何らかの手段で実行できない限り、ベーシック・インカムの理想は絵に描いた餅でしかない。生存にかかるもっとも基本的なものが、少ない費用で提供されない限り、ベーシック・インカムが施行されたとしても、いまと状況はまったく変わらないでしょう。これは断言してもいい。方法は色々とあります。バウチャーという手段でも食事クーポンという手でもいい。この部分にメスを入れない限り、すくなくともセーフティーネットの改革案としてのベーシック・インカムは成立しません。

たしかに、ベーシック・インカムで期待されている最低保障額でも、なんらかの集団生活を行えば生存は可能です。というより、むしろ集団生活を基本とした社会構造に移行するべきでしょう。ベーシック・インカムはそれを後押ししてくれます。ではなぜ上記の改革が必要なのか。

答えは単純です。必ずしも集団生活が可能な人ばかりではないからです。というより、家族という形態以外で、自発的意思で集団生活に移行する人のほうが稀でしょう。職業的な理由からや、なんらかの事情から集団で暮らしている人も、いつまでもその状態を維持し続けているわけではないでしょう。家族ですら、必ずしもその形を保っていられるわけではない。集団生活のほうが安く生きていけるとしても、あるいは有利だとしても、人は必ずしもその形態を取るわけではない。もしその選択が一般的なら、独身者用家屋はルームシェアが基本になっているでしょうし、いまよりももっと、二世代三世代住宅が多くなっているでしょう。

主張が矛盾しているのではないか。そう考えた人も多いでしょう。はい、矛盾しています(笑)。繰り返しますが、私は集団生活を推奨しています。だからといって、多くの人がその選択をするとは考えていません。主張は主張、現実は現実。この見極めをしなければ、まっとうな主張とは言えないでしょう。

社会生存コストの低減は、一人で暮らしていく場合にかかる費用を下げます。これは言葉を変えれば、暮らし方の選択肢を多くすることでもあります。経済的な有利さを求めて暮らしのパートナーを求めてもいいし、あくまでも自由を求めてもいい。生存コストが下がった分を消費に注ぎこんでもいいし、学習に費やしてもいい。それに集団生活には難点もあります。必ずしも利害の合う相手ばかりではない。家族でも暮らしにくいと感じる人達はいます。まして、他人同士が経済的な理由だけで結び続けるのは難しい。経済的なことが理由で意に沿わぬ関係を続けるのは、むしろ不幸な状況と呼べるのではないでしょうか。

あたりまえの話ですが、ベーシック・インカムで社会の諸矛盾が解決するわけではありません。経済的な問題でも、そうでしょう。ベーシック・インカムでは解決しない問題も、ベーシック・インカムで起こりうる問題も、同時に考えていかなければならないのではないでしょうか。

2010年3月15日月曜日

社会 : 非実在青少年規制について考えたこと

すでにご存知の方も多いかもしれませんが、東京都で「東京都青少年健全育成条例改正」について、リアル/ネットを問わず、議論が沸き起こっています。詳細は、まとめサイトをご覧ください。このような東京都の動きについては、正直、「またか」という半分あきらめに近い気持ちを抱いてしまうのですが、これはこれで社会に生きるうえで必要なコストかもしれません。今回はそういう話です。

健全、という言葉に、私達はポジティブな印象を持ちがちです。規制に反対する人達でも、「社会が不健全であれば良い」などと考える人は、少数でしょう。ほとんどの人は、「恣意的、一方的な解釈を基準として、健全/不健全が決められる」ことに反対を表明しています。健全、不健全の意識は個々人に属するもので、誰にもそれを決めることはできない。多くの人が某かを「不健全なもの」と考えたとしても、後の歴史では逆の判断をされる可能性がある。反対派の多くはこの論理で反対をされています。私もまったく同意見なんですが…

それなら、「健全/不健全」という言葉は意味を持たないのではないでしょうか。人によって解釈が異なるのなら、その対象は「健全でも不健全でもないもの」ということになります。この世の中には、「健全なものは無く、したがって不健全なものも無い」と言ったら、あなたはどう感じるでしょうか。違和感を持ちますよね。当然です。「その対象とするものが健全であるといわれても、私は不健全と感じる」と思うでしょうし、その逆もあるでしょう。結局のところ、健全なもの、不健全なものをという「実体」はどこにもなくて、ただそこにあるのは、それを「健全と感じる意識/不健全と感じる意識」だけではないでしょうか。規制をめぐる闘争の本質は、けしてマテリアルをめぐってのものではなく、この「人の意識」をめぐってのもの、と言えます。あたりまえのようで、意外と見落とされがちな話が、これです。

私達は規制を考えるとき、実体を伴ったもの、具体的にはコミックや小説、映画や音楽といった「実体」にばかり目が行きがちですが、ほんとうの「敵」は、それを「敵視する視線」だということを忘れてはいけません。まあ、これは規制される側にいる人達にはわりと自明のことですが、規制する側の人は、それを見落としがちになっていることが多いので、ご注意ください。意識的にそれをされても困るんですが(苦笑)、無意識なものは、もっと困ります。

価値観と価値観の対決に終わりはありません。都知事が変わったとしても、どこか別の県に出版社等が移動したとしても、この問題は消えることはないでしょう。「我々の戦いはこれからだっ」と叫んで打ち切りになるのであれば、どんなにかよいのですが。

2010年3月12日金曜日

社会 : ライフログの有効活用

ライフログという言葉をご存知でしょうか。自分達の日々の暮らしや行為を、デジタルデータに残して記録したものです。といっても難しく考えることはなくて、ブログに日記をつけたり、Twitter でつぶやくことでも、立派なライフログになります。将来的には身体の健康状態をモニターして、それを定期的に医療機関等に送信するような行為も、そう呼ばれるかもしれません。まだしばらくは未来の話でしょうが。今回の話は、そこまで未来の話ではなく、我々が日常的に残している記録を、もっと有効に使えないか、という話です。

わかりやすいであろう例として、介護サービスを例にしましょう。家庭で訪問介護を受けたとします。その際、ヘルパーの方のサービスに不満が残った。不満があっても、ヘルパーに気兼ねして、それを伝えなかったとします。相手に気兼ねして不満を伝えられない、というシチュエーションは、わりと理解しやすいと思います。さて、それを自分の胸のうちだけにしまっておかないで、いまだったら Twitter でつぶやいてしまった、という行為になったとしましょう。それを読んで、みなさんはどう感じられるでしょうか。

わりと起きやすい事例としては、介護サービスに対して不満を持った経験のある人々が賛同して、その話で盛り上がる。逆に、「ヘルパーも大変なんだから不満を持つなんておかしい」という意見が盛り上がって、最悪、炎上になる。だいたい、このどちらかの展開になることが多いと思います。しかし、すこし待ってください。

ヘルパーに問題があったのか、介護を受けた人に問題があったのか、この例では判別できません。つぶやきが詳細なものなら、あるいははっきりするかもしれませんが、それを相手に伝えて終わり、でいいのでしょうか。すこし、もったいないと思います。

対人サービスというものは、技能を伝えるということが思いのほか難しい、という特徴を持っています。言語化、マニュアル化されていない「知恵」が多く、経験がものを言う世界です。それに相手があって成り立つ仕事ですから、千差万別、なかなか「これでよし」という最適解は得にくい。なんとかできないでしょうか。

そこで、最初のライフログの話に戻ります。自分の受けたサービスについての感想を残し、それを様々な人に見てもらうことで「参考例」として残す。それを読んだ人が感想や経験を語り、それをまた「参考例」として残す。この積み重ねを用いることによって、かなり詳細なデータベースの構築が可能となるのではないでしょうか。いわゆる、集合知という奴です。

まあ、現実にはかなりリテラシーを要求する行為なので、なかなか実現までの道のりは遠いと思います。ただ、「人の経験や不満を糧とする」という姿勢で臨めば、文面から読み取れるもの以上の知恵は得られるものです。ただ、相手の気持ちに賛同したり反発したりするだけでなく、そこに至った経緯にも視点を向けてみることで、もっと豊かなコミュニケーションが可能となるのではないでしょうか。

2010年3月11日木曜日

BI : 覚書のついでに考えたこと(その五)

今回は住居の話です。

覚書のときにも提言というかアイデアのひとつとして書きましたが、私は「国民皆住居」を理想としています。国民全員に国家が住居を保障する、という制度です。持ち家を推奨している現在の制度とは、真逆の考えです。これにはいくつか理由がありまして、覚書のときには長くなるので書かなかった点について、今回書いてみたいと思います。

ひとつには、なんらかの理由で住居空間を失った人達に、それを提供することを目的としています。災害や失業で住居を失う人達の姿は、誰でも見たことがあるでしょう。経済的にも疲弊しているであろう方たちを救うのは、国家の義務だと考えます。であるならば、常にそれに備えておく制度は必要でしょう。これは理解しやすい話だと考えます。しかし、それだけではありません。問題はここからです(笑)。

そもそも住居というのは、なぜ必要なのでしょうか。あたりまえの話ですが、生活のもっとも基盤となるものであり、それが無い場合は生存そのものに重大な危機が訪れる可能性があるためです。ホームレスでも常に路上にいるわけではなく、どこかに雨風をしのげる場所をみつけ、そこに集うでしょう。なんらかの形で住む場所が無ければ、行政のサポートも受けられません。国民の誰もが絶対必要としているものであるなら、それを提供する義務は国家にある、と私は考えます。生存権を保障しているのであれば、その基盤の整備を行うことは当然でしょう。住める場所が無い、などということは、そもそも文明国としておかしいんですよ。

もうひとつ。これはけっこう異論を持つ方も多いとおもいますが、私は「住居を持つ/持たないという選択については、誰でも自由であるべきだ」と考えています。基礎的な住居空間を国家が保障し、そのうえで「持ち家」を持つかどうかは、個人の選択に委ねるべきだ、という考えです。よく考えてみてください。いま現在、家屋なりマンションなりを購入するという行為は「一生の買い物」と呼ばれるほど、高価な選択になっています。労働に費やす年月のほとんどをローンの支払いに使ってしまう。それでも数代に渡って利用できる住居ならまだいいんですが、かなりのものが、せいぜい二世代も持つか持たない代物だったりします。こんなものを財産などと呼べるでしょうか。

持ち家の問題は他にもあります。ローンの期間が長すぎるために、途中で職場が倒産したりリストラが行われたりすれば、とたんに経済的に大きな問題が生じることです。現実問題、ローンの支払いが困難になったために住居を手放す人達は数多くいます。経済競争が激しくなり、企業の存続が必ずしも約束されるものでなくなっている現在、住居購入の判断は、かなリスキーと言えるでしょう。それでも持ち家を持ちたい、と考える人はそれでもいいでしょうが、すくなくとも、国家政策としてそのようなリスクの高い道に国民を誘導することは、問題がある、と私は考えています。

あるいは、持ち家という選択がリスキーであるという意識が広まれば、自然と人々は賃借住居を選択するようになる。そうすれば競争原理から賃借価格も安くなる、と考える人もいるでしょう。私もそれが自然な流れだと思います。現実にも、そういう流れになっていくのではないでしょうか。ただ、住居空間というのは、最初に書きましたが、生存にとってかなり重要な意味を持っています。最低生存保障のひとつとして、国家がこれの提供に尽力することは当然のことだと考えますが、みなさんはどのように考えられるでしょうか。

ぶっちゃけ言ってしまうと、「民業圧迫だ。不動産収入や賃借収入で暮らしている人達をどうする気だ」と言われるのは覚悟しています。ここがこの話の最大の弱点でして(苦笑)。なにかうまい方法がないものか、とりあえず納得してもらえる方法がないか、という点が今後の課題です。

最後にひとつ。公営住宅があるのでは、と思われるでしょうが、あれは足りません。足りないだけでなく、入居条件が以外に厳しく、そう簡単には利用できない制度になっています。必要とする人達の元に届かない社会保障制度なんですよ。まあ、必要な人達の下に届かない保障、というのは、住居に限った話ではないですが。

2010年3月8日月曜日

Bi : 覚書のついでに考えたこと(その四)

ベーシック・インカムを否定する意見として、わりと賛同を得やすいものに「働かなくても収入が保証されるのなら、働く人が極端に減る\誰も働かない」というものがあります。現実的な制度設計を考えたとき、この意見には無理な点があって、それは、「誰もが豊かに暮らせるほどの支給額を賄うことは財政的に無理がある」という点です。なるほど、ベーシック・インカムの理想はたしかに「労働からの解放」を謳っていますが、それはあくまで理想論であって、現実の政策としてそれを実現するのは、かなり未来の話でしょう。現実にはほんとに「生きていくのにギリギリの支給額」になると考えます。まあ、これにも抜け道があって、個々人の支給額が低くても集団生活をすれば、けっこうな額を「共有」することが可能ですが、それはそれでもOKだと思います。共同生活を円滑に運営するためには、必然的にコミュニティを形成しなければならなくなり、助け合って暮らしていくことが常態となる。社会生存コストを劇的に下げるためには、コミュニティの再生が不可欠ですから、むしろこの方向は望ましい。

そうは言っても、コミュニティ内部の暮らしで満足されて、労働意欲がまったく無くなるのも困った話です。ところで、なぜ労働意欲が低下したり、無くなったりするのでしょうか。

仕事というのは苦しいもの、辛いもの、という意識は、わりと根深く社会に蔓延しています。ベーシック・インカムが「労働からの解放」を謳うのも、この意識を踏まえてのことでしょう。これは労働に魅力が無いことを意味しています。たしかに、「私達は労働の奴隷として暮らしている」と考える人にとって、働かなくても暮らせるのであれば、積極的に働こうという意識は生まれないでしょう。貧乏な生活でも満足しよう、と考えるのも無理からぬことです。誰も辛い暮らしをしたいとは考えませんから。

しかし、よく考えてください。これはようするに「みんな嫌なこと、辛いことを我慢しながら生活している。それが人生だ」と言っていることになります。労働が必ずしも「嫌なこと、辛いこと」だとは私は考えませんが、今回はそれは別論として置いておきます。嫌なことや辛いことを行うことは、極めて非効率的です。そもそもモチベーションが沸きませんし、働く気のない人間の仕事が、精度が高いわけがありません。そもそも論を言えば、そういう仕事があったり、改善されていないことは社会的損失でもあります。

もちろんここで、「労働というのは辛いことばかりではない。嬉しいことや誇りとすることもある。両側面があるのだ」と考える人も多いでしょう。まったくもってその通りで、どんなことにもプラス面マイナス面があります。だから、我々は労働を続けられるわけなんですが、一方で、私達はそれを伝えているでしょうか。自分の仕事のどんな部分が楽しいのか、あるいは社会の役に立っているのか、誰に喜ばれているのか。あるいは、こう言い換えましょう。私達は自分の仕事のどこに喜びを感じて仕事をしているのか。意外とこの点について無自覚であったり、考えたことのない人が多いのではないでしょうか。すくなくとも私は、「暮らしていけるのなら働かない」と考える人達は、このことに無自覚であろうと考えています。

まあ、たしかに「これはどう考えても奴隷労働と大差ないだろう」と思える仕事も世の中には多いわけで、それはそれで改善していかなければならない問題です。社会にとって不必要なものなら無くなってしかるべきですし、必要な仕事であれば、労働者の待遇改善は喫緊の課題でしょう。これはベーシック・インカムとは関係ない話ですから、直接利害が関係しない限り、誰にでも賛同してもらえることだと考えます。だいたい、必要不可欠な仕事についている人の労働意欲が低いなんてことは、誰にとっても損失なんですよ。

すくなくとも、「労働は辛いばかりではなく、楽しい面もある」と考える人がほとんどになれば、労働意欲の減退には一定の歯止めがかかるでしょう。労働環境の改善は、産業競争力を発展/維持する点でも、必要不可欠なことなんですよ。おかしな労働は改善していきましょう。

2010年3月7日日曜日

社会 : いつまで未来を蝕み続けるのか


正直な話、こんなブログを読んでいる時間があったら、この紹介記事を多くの人達に広めて欲しいと思います。悲惨とか可哀想といった「お涙頂戴」で考える話ではありません。私達は未来を潰している現実と向き合わなければいけない。

少子高齢化が進む日本で、これからの時代を担う若人は「すべて文字通りの意味で金の卵」と言えるでしょう。彼らに成長してもらい、日本を支えてもらわなければ、未来は無い。いまの経済状況では、安くておいしい卵(若年労働力)はありがたいかもしれません。しかし、親鳥になるはずの卵を食べてしまっては、将来飢えるのは、自分自身なのです。

2010年3月6日土曜日

Bi : 覚書のついでに考えたこと(その三)

労働の喜び、というものを、みなさんはどのような時に感じるのでしょうか。お客さんに喜んでもらったとき、上司に褒められたとき、チームの仲間と仕事を成功させたとき、目標となる成果をあげたとき、形は様々ですが、ようは「仕事で成果を出したとき」に労働の喜びを感じる、という点では共通しているでしょう。では、それが労働の喜びのすべてでしょうか。もちろん違いますよね。給与を貰ったときにも、労働の喜びを感じる人がほとんどでしょう。自分の仕事が認められている、と感じるのは、むしろ給与の額が上がったりボーナスの額が増えていたりするときではないでしょうか。それはなぜかといえば、一番わかりやすい指標となるからです。お金がすべてではない、と考える人でも、報酬の額に色がつけば、やはり「認められている」と実感するでしょう。逆に言えば、お金以外に私たちは、「労働の価値を認めるわかりやすい指標を持っていない」ということです。お金が指標としてわかりやすすぎるから他のものを産み出していないのか、あるいは、お金以外に指標となるものが存在し得ないのか、それはまだわかりませんがしかし、「いま現在、お金以外にわかりやすい指標はない」という事実は重要だと考えます。

ところで、労働意欲を刺激するために、「高い報酬額を約束する」という行動は、どういう意味を持つのでしょうか。その人の能力を認めたうえで、より高い能力の発揮、利益の創出/確保を期待する、ということでしょう。評価と期待の両側面を持っているわけです。これは、額は違いますが能力給等にも適用できる話です。評価と期待のバランスが取れていれば、人は利益もさることながら、良い評価を得ようと必死になって働くでしょう。金額の多寡よりもむしろ、認めてもらうという実感を求めて、かんばる人も多いのではないでしょうか。

この認識は重要です。人は評価されている、期待されている、と感じるときに労働意欲が増す。そしてそれには、「わかりやすい指標が必要」ということ。このどちらが欠けても、労働意欲を持続させることは難しいはずです。「誰にも認められなくてもコツコツと何かを作り続ける人もいる」と考える人もいるかもしれませんが、その人は「労働意欲」とはべつの原理で動いているのだと考えます。それにそもそも、そういう人達は少数でしょう。あるいは、「無報酬労働でもがんばる人達もいる」と考える人もいるかもしれませんが、注意してください。私は「わかりやすい指標が必要」と言っているのです。その人達は金銭以外の、自分達にとってわかりやすい指標を持っているんですよ。

正直な話をすると、私はベーシック・インカムなどが行われても、それだけで低賃金を余儀なくされている、特に介護や保育のような仕事に人々が労働移動を行うのか、はなはだ疑問です。賃金をあげることで労働意欲を上昇させることが難しいこの仕事は、それ以外の手段で労働意欲を担保する必要があります。人々の笑顔や感謝は、たしかに嬉しいものですが、それだけに頼るのは、あるいはそれだけを重視するのは、なにか間違っている気がします。とはいっても、私も「これだっ」という回答は出せません。みなさんにも考えていただきたいと思います。

労働意欲は、「私は認められている、期待されている」と感じるときに、強く産み出されるものです。私たちは、金銭の多寡以外に、この指標となるものを産み出す時期に来ているのかもしれません。それも、わかりやすいものを。

2010年3月4日木曜日

BI : 覚書のついでに考えたこと(その二)

労働というものがなんなのか、労働の意味について、という疑問に対する答えは、簡単なようでいて、意外と難しいものです。それは、労働が複数の意味を持っているからです。私たちは「働いて対価を得る行為」を労働と考えていますが、ほんとうにそれだけでしょうか。

ところで、労働ってどうやって成立しているのでしょう。狩猟型のものであれば、獣や魚を捕ること。農業なら土を耕して作物を作ること。あるいは、工作物を作って売ること。人の仕事を手伝ったり代行したりすること。何かを行って対価を得る、この一連の流れを私たちは労働と呼んでいます。一見自明のようですが、すこし考えてください。

働けば、必ず対価を得られるのでしょうか。魚を捕りに行っても得られないことはあるし、作物も育たないか収穫できない可能性はあります。物を作っても売れないかもしれないし、サービスを提供しても、相手が満足しなければ期待した対価は得られないかもしれません。労働すれば、必ず期待した対価が得られるわけではない。この当然の現実と、「働いて対価を得る行為を労働と呼んでいる」ことには、どこか齟齬があるように感じます。これは、どういうことなのでしょうか。

これは最初の定義がそもそも間違っていて、労働とは「行動に対する形で、対価を得ることを期待する行為」と理解するほうが、実情に合っています。常に、とは限りませんが、多くの場合、私たちは経験的に、ある行動を行えばそれに対する形で対価を得ることが期待できる、と知っているから働くのです。働いても対価を得られるかどうかわからないのでは、私たちは生きるための、生物としての最小限の行為しかしなくなるでしょう。人類が生み出した労働社会は、いわば、「働けば、それに見合った対価を得られるという期待を、最大限に保障する仕組み」と言えます。そういう仕組みの完成度を上げるために、私たちは働いてきた、と言えます。

労働社会の上に経済社会があるわけですから、経済の仕組みも同じ原理で動いていることになります。「その産業が、活動の結果として利益をあげることを期待する行為」が、経済と言えます。難しく考える必要はありません。ようは、株式投資の考え方がそれです。その会社/産業が、一定の利益を産み出すと期待するから、それを金銭的に支援する。まあ、言うなれば私たちは、さまざまなバクチの上に社会を築き上げている、と言えるでしょう。

ところで、私たちは経験的に、「働いても利益を得られないこともある」ということを自覚していますから、それに対処するための行為、リスク管理を行います。食料を余剰に作って備蓄したり、工作物を複数種類作ってニーズに応えられるようにしたり、サービスの利益を貯蓄したりするわけです。損失が出た場合の保障を売る保険も、そうですね。言うなれば、「対価が得られるかどうか確実ではないがゆえに、それを見越した活動を行う、あるいはそれを価格に転ずる」という行為です。さて、一番わかりやすいのは価格のほうなので、そちらを中心に据えますが、この「利益が得られるかどうか不明なため、その保障として設定されている価格の一部分」をなんと呼べばよいのでしょうか(これは宿題です)。

メディア : 朝までダダ漏れ討論会を観て

先月の最終日曜日(2月28日)に、Ustream(PTFlive)にて「朝までダダ漏れ討論会 : どうなるこれからのジャーナリズム!」というイベントが開催されました。第一部の司会は田原総一郎氏、第二部の司会は津田大介氏で行われ、参加されたパネラーは、次の各位。

・上杉隆氏(フリージャーナリスト)
・田端信太郎氏((株)ライブドア、メディア事業部長)
・神保哲生氏(ビデオジャーナリスト)
・匿名氏(テレビディレクターとのこと)
・山口一臣氏(「週刊朝日」編集長)
・河野太郎氏(衆議院議員)

内容は、といいますと、なにぶんにも六時間を越えるものなので一口には説明しがたいのですが、基本的にタイトルにあるように、現在のジャーナリズムの問題点や、記者クラブの問題点、取材姿勢のあり方などが討論されていました。「朝まで生テレビ」のような企画をネットメディアが行う、ということで、かなり注目を浴びたようです。今回は、視聴した一人として、感想などを書いてみたいと思います。今後の参考になれば幸いです。

正直な話、おもしろかったと言えばおもしろかったし、おもしろくなかったと言えばおもしろくなかった、という結論になります(苦笑)。なんともどっちつかずの話ですが、これはこういうことです。

これまでTV局の資本力やシステムがないとなかなか成立しないであろう、と考えられていた「イベントタイプの討論番組」というものを、ネットメディアのチープな環境でも実行可能だ、と証明したことは、けっこう衝撃でした。まあ、チープな伝送回線の問題で放送が途切れるという「けっこう致命的な問題」はありましたが、それは技術的な問題なんで、なんとかなると考えます。まずはこの快挙を祝福しましょう。この点が、おもしろかった。新規な試みに対する興味が、十分に満たされた、ということです。

ただ、問題はここからです。

つまらなかったと感じた理由は、けっこう多岐にわたります。一番大きいのは、ディレクターの不在、構成の不在です。視聴者になにを見てもらいたかったのか明確ではない。出演者の主張なのか、出演者同士の意見が対立することなのか、出演者の主張によって浮かび上がってくる社会の問題なのか、あるいは、出演者自身を客寄せパンダとして「魅せる」ことなのか。それらが明確ではない。というか、視聴者としては個々人の話はわかるのですが、番組としての主張が感じられなかった。一時間半くらいの番組ならパネラーが個性的な方々ですから、それでもいいのですが、長時間になると、この欠点がけっこう目立ってきます。視聴者ってのは、討論の内容もさることながら、娯楽としての討論、ストーリー性のある番組作りを無意識に求めていたりもするものですから、常に視聴者がなにを見ているのか、という視点を持ってほしいと考えます。

Twitter との連携にも色々と問題はあると思います。視聴者の意見がまとまった形やピックアップされた状態で提出されるTVの討論とは違い、討論の横でフォローがなされていたりコメントが流れていたりするわけですから、双方向性への期待は、TVよりもずっと強い。議論の流れもさることながら、感想を随時討論者に返していく、といった進め方も必要でしょう。議論の流れをぶった切ってでも、強引にフォローやコメントの意見を差し挟む、といったことも必要かもしれません。ただこれは、有益な討論を望む視聴者にとっては迷惑な話ですから、なかなかバランスの取り方が難しい問題ではありますが。

パネラーの生かし方、という点でも、若干、もったいなかった気がします。みなさん、非常にお行儀よく話をされていましたが、ほとんどの方がジャーナリストなんですから、お互いに相手から意見を引き出しあう、といった姿勢があったほうが、討論番組としての魅力を出せたと思います。プロレス的な進め方をしたほうが、視聴者としても楽しめたと思います。意図的にバトルロイヤルな方向に持っていってもらう、ということはできたと思いますので、ここは次回に生かしてもらいたいかと。

細かい話をすれば他にも色々とありますが、基本はごくあたりまえな、「視聴者の視線に立った番組作り」をしてほしい、ということです。視聴者の「視点」ではなくて「視線」です。

2010年3月3日水曜日

政治 : 寝た子を起こすか宗男さん


 衆院外務委員会(鈴木宗男委員長)は3日午前、核持ち込みなどに関 する日米間の密約をめぐり、当時の経緯を知る立場にあった外務省の歴代事務次官や旧条約局長経験者の参考人招致を全会一致で決めた。理事懇談会では村田良 平元次官や東郷和彦元条約局長、吉野文六元アメリカ局長の名前が挙がった。
自民党政権下で一貫して否定されてきた「核持ち込み疑惑」が、これでようやくその姿をあらわしそうです。鈴木宗男議員の努力には頭が下がります。冷戦下の、そして現在も続く日米同盟のあり方について、議論が沸き起こるかもしれません。

ただ、これは果たして、手放しで喜んでいいことなのでしょうか。核の持ち込み疑惑は、かなり昔からあった話です。いわば、冷戦下で継続的に行われてきたこと、と言っていいでしょう。けして一時的な問題ではない。それは言葉を変えるなら、日本は一貫して米国の核防衛体制を支え、享受してきた、ということです。

ご承知の通り、日本には非核三原則があります。「作らず持たず持ち込ませず」と。核持ち込み疑惑があきらかになるということは、この原則がほぼ最初から意味を持っていなかった、ということでもあります。我々の平和は、その願いに支えられていたのではなく、委棄すべき力によって支えられていた、ということです。広島長崎の願いも、現実のパワーポリティクスが担保していた、ということです。私たちはこれと正面から向き合わなければなりません。平和を願う祈りは真摯なものであったかもしれないが、その裏には真逆のものがあったことを。安心して祈りを捧げることができたのは、力という支えがあったことを。

まあ、それはそれ、これはこれとして。過去は過去、現在は現在、未来は未来、です。過去にあった密約があきらかになれば、現在や未来の防衛に対する考え方に色々と参考になる事実もあきらかになるでしょう。まずは、このチャンスを生かす道筋をみつけることが、急務なのではないでしょうか。

2010年3月2日火曜日

BI : 覚書のついでに考えたこと(その一)

えー、このエントリでは「ベーシック・インカムについての覚書」を書いている途中で、色々と思いついたこと/考えたことを、ダラダラと書いていく予定です。J.M.GEARという人間の頭の中をさらけ出していく内容になります。極力、みなさんの考え方の参考にできる内容であることに努めるつもりですが、どうなるかわかりません(笑)。あと、不定期連載の予定ですので、毎日の更新は難しいと思います。ご容赦ください。

今回は、労働について。そもそも、私たちはなんのために働くのでしょう。「働かなければ生き残れないっ(CV:鈴木英一郎)」と考えるのが、ふつーの感覚でしょう。生活保護があるから働かなくてもいいじゃん、なんて考える人は、ほとんどいませんよね。私たちは(職業的)教育というカードデッキを持って、就業という契約の下で、それぞれの望みを胸に、バトル・ロワイアルを闘っているわけです(参照:仮面ライダー龍騎)。そうしないと負けてしまい、生き残れないから。適者生存の法則ですね。こういう残酷な世界ですから、その闘いを止めたい、という城戸真司さんのような人が出ます。誰?と思った人は、仮面ライダー龍騎を観てください。ベーシック・インカムとかに希望を託す人が多いのも頷けます。

しかしですね、これって少しおかしいんですよ。人の望みや願いというのは、多種多様です。とにかくお金が欲しい、お金で買える物はすべて欲しい、という欲求を持っているのならわかりますが、有名になりたいとか、スポーツなどの分野で一流になりたいとか、もっとささやかな、幸せな結婚がしたいとか、といった望みなら、死ぬ気で働く必要はないわけです。芸能界とかスポーツ競技の世界とかは競争社会ですから、「死ぬ気で」という意識は必要でしょうし、闘わなければ生き残れない、というのは日常的でしょうが、それでもある程度成功した人は、その状態を持続させる働き方に転じるか、後進に道を譲るわけです。もちろん、「闘わなければ生き残れない」というのは、あくまで言葉の上の話であって、精神論にすぎない、ということは理解しています。おかしいと思っているのは、働く必要性を考える上で、こういう発想が出てくることです。

ベーシック・インカムに限りませんが、社会保障の話をするときよく出てくる言葉が、「働かない人に金銭的保障をするのはおかしい」というものです。特にベーシック・インカムの場合は、「働かないのに金銭的利益を得れば、人は働かない」という反対意見が出てきます。出るだけじゃなくて、それが一定の支持を集めたりする。じつを言えば、私もその考え方はわかります。収入が得られるのであれば働きたくない、と考える人は、じつはけっこう多い。これは言葉を変えれば、「労働には金銭的利益を得ることしか意味は無い」と言っていることになります。お金をもらうことだけを目的に労働する、ということですね。

でも、労働の現場にいると、それだけじゃない、と感じるんですよ。

賃金を得るための労働であれば、与えられた仕事だけをやっていればいい。でも、多くの人達は、それ以上の成果をあげようとします。もちろんそれが評価に繋がり、最終的な利益に繋がると信じられるからですが、ほんとうにそれだけなんでしょうか。

それに、「金銭的利益を得られるのなら、人は働かない」と言っている人は、働くことそのものに価値を認めていないことになります。そうでしょう。お金を得られれば働かない、ということは、誰もほんとは働きたくなんかない、と言っているわけですから。しかし、これもほんとにそうなんでしょうか。

家族がいる人は、家族のために働くと答えられることが多い。とくに子供さんがいる家庭はそうですね。子供さんのため、というのは、正確には「子供の未来の幸せのため」でしょう。これはすごくわかりやすい話です。「子供がいれば、ベーシック・インカムの給付だけでも十分な収入になる。そういう人は働かない」という人に対する反論として、私はこれをあげることが多い。まあ、残念ながら実際の社会には色々と「問題のある親/大人」がいる、という欠点があるんですが。

この「未来の幸せのため」という部分は重要です。要求される労働以上に人が働こうとするのは、なぜか。という質問に対する答でもあるからです。評価されることが将来への利益に繋がる、という期待。これは、人に労働意欲を起こさせるためには、未来への期待を維持させる必要がある、ということです。未来への期待があるから人は働く意欲を失わない。逆に言えば、それが失われれば、人は働く意欲を失う。

いまの社会は、未来への期待を喪失した社会なのでしょうか?

2010年3月1日月曜日

BI : ベーシック・インカムに対する覚書(その五)

ところで、実現可能性の高い政策として考えた場合、私は「給付付き税額控除」が一番現実的な回答だと考えている。いくつかの国々で実際に運用されており、なにより政治的な抵抗が一番少ないと考えるからだ。現在の社会保障システムが様々な問題を抱えており、現実問題として改革が求められていることは、多くの人達が賛同することだろう。困っている人達が多くいる状況で、政治的なゲームが繰り広げられることは望ましくない。

とはいうものの、私は上記の制度には、じつは否定的だ。短期的には意味があるし重要な制度改革だとは考えるがしかし、長期的な視野で見た場合、あまり望ましくない。「労働力が余る傾向にある」というテーゼを主張しているためだ。労働力が余る、という言葉に違和感のある人には、言い換えよう。「全体の労働コストは不可逆的に下がる傾向にあり、それは創出される労働需要をはるかに上回る」ということだ。単純な話で、サービスの値段がどんどん下がれば、それは給与となる原資の額がどんどん下がることを意味する。最低賃金保障があるので個々の分野/企業では下げ止まりや、あるいは収益改善で上がることもあるだろうが、全体を見た場合は、この傾向は止まらない。ようするに、ほとんどの人が低賃金労働を余儀なくされていく、ということだ。負の所得税にしろ給付付き税額控除にしろ、基本は同じで、生活に必要な資金を賃金で得られないのなら、それを一定の範囲で保障しよう、という制度だ。制度を利用する人達が増え続けるとするなら、その制度がどういう帰結を迎えるのかは、容易に想像できるだろう。

じゃあ、どうしたらいいのだろう。私のアイデアは、「ベーシック・インカムを使って、健常者に対する社会保障の上限額を決め、基本的に、その範囲内で生活してもらおう」という考えだ。先に言っておくが、これはあくまで「健常者」が対象であって、身体的に問題を持つ人々に対する保障は別論だ。それでも異論を持つ人は多いだろう。ベーシック・インカムは「最低生活保障」なので、いま現在生活保護を受けていたりする人達や、年金で生活している人達にとっては、減額になる可能性が高い。というか、まずそうなるだろう。どうやって暮らせばいいのか、と怒る人も多いだろう。

しかし、だ。「働ける人が働いて社会保障の原資を稼ぎ、それを元手に『いまの暮らし』を維持する」という考え方は、近いうちに崩壊する。もしかすると、もう崩壊しているのかもしれない。いつまでもそんな夢物語にしがみつくことで税金をいたずらに浪費したり、失敗した企業を延命させて社会的損失を出し続けることは、もうやめよう。我々は「暮らし方」を考える時期に来ている。豊かさについて、考え方を改める必要があるのだ。

社会的な生活を維持するのに必要なものはなんだろうか。衣食住だろう。他のものはどちらかといえば文化的な生活、に属する。まず、この三つから考えよう。

衣料については、正直、あまり考えてない(笑)。ただ、衣料の価格破壊はすでに進行しているし、あるいは昔のように「繕い屋」という仕事が復活するかもしれない。フリーマーケットという手もあるだろう。
食料。これはけっこう難問だ。価格破壊が、ではない。既得権益の問題が、だ。ご存じない方もいるかもしれないが、日本は国内の一次産業従事者を保護するために、食料輸入には高関税を課している。また、漁業、畜産、そして農業には巨大な規制があり、大資本による効率化された生産活動は、かなり困難なのが現状だ。言い換えれば、関税を撤廃したり、『従事者ではなく漁業畜産農業そのものを保護育成する』方針に切り替えれば、価格はかなり安くなるだろう。もちろんそれは、それぞれの仕事に従事する人々の失業を意味する。関連する組合団体も解散を余儀なくされるだろう。しかし、だ。行政の保護は、けしてそれらの産業の守ることを意味しない。むしろ逆効果であり、心ある経営者の足をひっぱっているのが実情だ。この既得権益を破壊しなければ、困っている人々に行き渡るだけの食費を用意することは、容易ではないだろう。
最後がこれも難関。住居の問題だ。これは逆に行政にがんばってもらわなければならない問題だ。具体的には、実質無料で利用可能なシェルター(避難所)の設置と、低コストで入居可能な集合型公営住宅の整備拡大だ。これは財政的にも難しい問題だし、公営住宅は「民業圧迫」と反対される可能性が高く、政治的にも難しいだろう。しかし、ここをなんとかしなければホームレスとなる人々は増える一方なのだ。行政は持ち家を勧める方針を転換して、国民には基本的住居を提供する方針を考えてもらいたい。

衣食住、というもっとも基本的な問題でも、その改善は容易ではない。しかし、ここで考え方を変えてほしい。誰にも失業の危機があり、低賃金労働者となる可能性があるならば、これらの整備低価格化は、誰にとっても利益となるはずだ。生活コストの低減は、豊かな暮らしをしている人にとってもメリットがあるし、苦しい暮らしを強いられている人々にとっては、なおさらだ。デメリットがあるとすれば、その産業に従事している人達にとってだが、はっきり言えばそれは、「既得権益の保護にすぎない」のだ。社会全体の利益を考えてほしいし、なにより、激しい競争を闘っている他の産業労働者に対して不公平ではないか。失業などによる生活レベルの低下は、たしかに精神的ダメージもおおきいだろうし、当事者にとっては苦痛だろうが、「すくなくとも死ぬことはない」という環境の整備は、それらの人々にとっても再起を促す原動力になるだろう。再チャレンジには、社会的な基盤造りが不可欠なのだ。

住環境の整備で、もうすこし。私は集合型住居の整備が望ましい、と考えている。というのは、これから増大する高齢者を適切にケアするためには、彼らの住居がまとまっていたほうが合理的だし、対応もすばやく取れる。現実問題として、たとえば限界集落にすむお年寄りも少なくないが、彼らを的確にケアし続けるのは難しいと考える。急に医者が必要といわれても、無理だろう。それに、集合住宅であれば、その維持管理の問題から、必然的にそこのコミュニティに所属しなければならない。まあ、わずらわしく感じる人も多いだろうが、コミュニティの再生による相互扶助は、行政コストを下げる意味でも必要なのでがまんしてほしい。どうしてもイヤな人は、死ぬ気で働き続ける道を選択して、好きなところに住むようにしよう。

ベーシック・インカムを導入するにせよしないにせよ、社会保障制度の問題は、この先重要視される一方になることは容易に想像がつく。であるならば、我々は行政コストを可能な限り低減させ、その原資を維持することを考えなければならない。行政に極力頼らなくてもすむシステムの構築が必要なのだ。そのためには、「助け合いの精神」を復活させ、それを行き渡らせなければならない。社会福祉は行政の仕事、という発想そのものが根本的に間違いなのだ。社会福祉はみんなが取り組む問題だ。行政も行政で、安易に福祉を拡大させるべきではない。それは結果的に財政破綻を招いたり、ほんとうに必要なサービスの低下を招く。まずは、みんなが協力してできる道を探そう。話はそこからだ。そうすれば少ない給付額でも、暮らしていく道はひらける。逆に言えば、この考え方を持たない限り、どんな制度であろうと破綻の道しか待っていない。

さて、最低給付でもなんとか暮らしていく社会が構築されたとして、それを保障するために現金給付という制度が必要なのだろうか。結論から言うと、現金給付と保障は関係ない。衣食住が保障され助け合いの精神があれば、現金給付なんかなくても生活の保障はなんとかなる。ではなぜ現金給付が望ましいのかといえばそれは、自由な経済活動のためだ。

人の幸せは他の人間にはわからないものだ。腹を空かせながらも好きなフィギュアを買い集める人もいるだろうし、着る物をけちって食費に回す人もいるだろう。給付されるものが現金であるからこそ、人はそれぞれの欲望にしたがって使い道を決め、それぞれの欲求にしたがって消費を行う。経済はそれを原動力として回り、そのなかからイノベーションの芽、新しい欲求の芽が出てくるのだ。欲望を満たすために現金が必要だからこそ、人はそれを得るために仕事をしようとするだろうし、様々なモノやアイデアを人に売ろうとするだろう。それは規模はちいさいかもしれないが経済を活性化させ、ものによっては巨大な利益を生み出すこともある。お金がなくては世の中回らないのだ。

以上が、私のベーシック・インカムに対する私見だ。まとめると、こういうことになる。

・産業進化は労働力の低減を招き、失業の増大や低賃金労働の拡大を生む。
・現在の社会保障体制は上記の前提に立っておらず、近いうちに破綻する。
・生存コストの低減を速やかに進め、あわせて行政コストを低減化する社会の構築を目指す。
・低コストで再チャレンジ可能な社会の構築を目指す。
・基本給付による、ミニマムマーケットの活性化を促す。

こんなところだ。既存のベーシック・インカムについて書かれた書物とは、いくつかの点で違うところに違和感を感じる人もいるかもしれない。しかしそれは、「労働力は余る傾向にある」という基本テーゼを共有していないからだと考える。同じ前提に立てば、すくくとも考え方の道筋には同意してもらえるだろう。もし、私の前提が間違っていると考えるのなら、反論してもらいたい。私自身も、これが間違いであることを願っている。「いまの価値観で考える限り」暗い未来だと思うからだ。

というわけで、なんとか完結まで持っていけました。ご愛読くださった皆さん、ありがとうございます。反論ある方は、ぜひどうぞ。コテンパンにしてください(笑)。

2010年2月28日日曜日

BI : ベーシック・インカムに対する覚書(その四)

労働力が余り、元労働者があふれる社会では、イノベーションによって様々な職場が創出されるとはいえ、人々は数少ない「職場」を求めて弱肉強食の争いを続けるか、競争に絶望したり疲れたりして、場合によっては人生そのものから「降りる」という選択をしなければならないのだろうか。正直に言えば、いまの社会の「あり方/制度」のままでいけば、それは現実の姿となると私は考えている。なぜか。いまの社会保障体制にしろ税制にしろ、「ほとんどの人々が働いて富を創出して、それを元手に社会をまわす」という仕組みになっているからだ。そもそも、「働けない人々が多数生まれる」という前提に立っていない。みんなに働いてもらわなければ困るのだ。しかし、生産力が上がり技術が進歩した現在、労働の現場は多くの人手を求めてはいない。いまだに資本の関係で機械化等が進まず非効率的な職場も多いが、それは時間の問題だ。廃業するか機械化/高度化が進み、いずれ労働者の必要数は減っていく。どうしても人間の手が必要な産業や職場だけは残るだろうが、すべての健常者がそこに場所を得るためには、労働人口そのものを均衡点にまで減らさなければならない。幸い、日本は少子高齢化で急速な人口減の社会に向かっているので、案外、上記のようなディストピアの期間は短いかもしれないが。

そうはいっても、上記のような明るいのか暗いのかわからない未来が、いつ到来するのかは誰にも予測できないので、もう少し前向きな話をしよう。後編の今回の話は、かなり個人的な希望や期待をこめて書いてあるので、異論を持つ方も多いとおもう。というわけで、結論から先に書いておこう。

産業労働に従事できる人々、すなわち「多くの富」を創出する力を持てる人々は、社会全体で見れば少数なので、彼らには彼らで存分に働いてもらい、それ以外の人間は、「少数の富」を創出しつつイノベーションに備え、なにより大切な「社会の維持」に努めよう。社会保障体制は、この思想の下に構築されなければならない。

産業労働に従事できない人間は、社会にとって不必要な人間、重荷となる人間なのだろうか。そんなことはあるまい。家族がいれば、親としての仕事/子としての仕事があるだろうし、地域にコミュニティを持っている人々もいるだろう。まあ、「私は仕事一筋で家族も省みずに働いてきた。他には何も無い」という人々も残念ながら多いとは思うが、いまその自覚がある人達は、地域社会等に目を向けてみるといい。企業人として培ってきたスキルのどれかは、きっと役に立つ。昔はともかく現在はコミュニケーションツールも発達している。このブログを読めるスキルと意欲があれば、誰かがあなたの声に耳を傾けてくれるだろう。話を戻そう。疲弊しているとはいえ、我々は産業労働の現場以外にも居場所を持っている。まずは、コミュニティを取り戻そう。あるいは、甦らせよう。地域を基盤とするものにせよ、あるいはもっと範囲を広げるネットワークにせよ、コミュニティは精神の安定を保ち、労働意欲の維持や活性化に不可欠なものだ。誰もが「職場の仕事だけが生きがい、望み、希望」というわけではあるまい。多くは、「家族のため」であり、その未来のためだろう。その家族はどこにいるのだろうか。産業労働の現場だろうか。コミュニティの維持は、労働者にとっても家族にとっても必要不可欠な仕事なのだ。

多くの人々は誤解をしている。地域社会を守ったり維持する仕事は、行政の仕事ではない。NPOやNGOなどの横文字団体のものでもない。一人一人の仕事なのだ。そもそも行政サービスが肥大化する原因は、人々が多くを求めすぎることにある。産業労働による果実にかまけるあまり、地域をないがしろにしてきた我々自身に責任がある。社会を壊したのは、企業社会でも行政や政治でもない。我々自身なのだ。産業労働に従事するチャンスを持たない人は、まずこの仕事に取り組もう。行政の手が届かない様々な場所に足を運び、サービスを提供して適切な範囲で対価を得よう。困っている人々は、なにも高齢者や身障者、子育て中の人などに限らない。労働意欲を持ち、教育訓練を求める人達も多くいる。彼らにスキルを伝える仕事も重要だ。コミュニティというものは、そもそも労働再生産を生み出すための基盤でもある。運悪く産業競争に負けて失業した人々が再挑戦するためにも、その生活基盤や学習基盤の維持は必要不可欠だ。そのことが回りまわって、「誰にでもチャンスのある社会」を作り出していく。そして、こういった活動は行政コストを低減させ、回りまわって、社会資本の原資を増やすことにも繋がるだろう。

しかし、コミュニティの維持や発展も、それに取り組む人々が多くなれば必要性は低下していくだろう。困っている人々が減るのはけっこうなことだが、対価を得る数少ないチャンスも失ってしまう。さて、どうしよう。ならば、再び熾烈な競争社会に身を置いてみてはどうだろうか。といっても、産業社会だけをめざす必要はない。「好きなことを仕事に」という方向のことだ。

正直に言えば、こちらはあまりオススメできない。熾烈な競争を勝ち抜いて職業としてこれを勝ち取れる人は、極めてわずかだ。「そこまでは求めない。わずかな収入でもかまわない」という人も多いだろう。熱狂的な一部のファンを持つバンドが、ライブハウス等で演奏する光景は、けっこうあちこちで見られる。「ふわふわ時間」は私もお気に入りだ。しかし、だ。少数のファンしかつかない、ということは、少数にしか受けていない、ということだ。それだけの価値しかない、ということだ。そこは自覚しておいたほうがいい……と書きながら卓袱台をひっくり返そう。いままでの話は精神論。イノベーションを考えるのなら、わずかな可能性でも果敢に挑戦していったほうがいい。桜高軽音部が武道館にいけるかどうかはしらないし、あなたの「歌ってみた歌」が受けるかどうかはわからないが、挑戦はやめるべきではない。誰の何に価値があるのかは、誰にもわからない。それに、いまはロングテールの時代だ。価値を見出してくれる人がいて、対価が得られるのなら、それは立派な仕事だ。誇りを持っていい。それになにより、その姿勢は産業のイノベーションを生み出そうとする人達にも支えとなるだろう。両者は同質のものなのだから。しかも、現代日本はモノがあふれている成熟社会だ。このような社会では必然的に、モノよりも知財、アイデアなどが高価値を持つ。チャンスだけなら、けして少なくないのだ。あなたの好きなことは、仕事として認められる可能性がある。がんばってほしい。

さて。ここまで読んで、「何が仕事だ。そんな程度のことで生活に必要な対価が得られるものか。夢みたいなことを言うな」と思われた人も多いだろう。私もそう考える。上記の例は、そのどれもが市場価値を持っていないか、極めて低い。まあ、「好きなこと」のほうは価値が出る可能性があるが、コミュニティの再生のほうは、市場価値の創出という点では絶望的だろう。そもそも競争のしようがない。介護や育児にはサービスも競争もあるではないか、という人もいるが、その現状をご存知だろうか。需要があるのに供給が追いついていない。様々な規制の問題もあるが、根本的には、コストが見合わない産業なのだ。需要があっても価格を上げにくく、そのために労働者の所得を増やすことができない。そもそも、産業競争力のあるものなら、規制があっても参入する企業は多いだろうし、規制自体を改変する動きも出るだろう。寡聞にしてそういう話は知らないのだが、どなたかご存知だろうか。話を戻そう。児童の登下校を見守ったり、独居老人を訪ねたり、地域の清掃を行ったりする行為は、社会の維持にとって必要不可欠なことだと思うが、産業競争力の無い仕事ではあるだろう。高賃金にするべきだ、と考える人もいるとおもうが、私は否定的だ。イノベーションを生み出す余地の少ない仕事は、あまり高賃金にするべきではない。それは回りまわって、社会的損失に繋がる。まあ、道路掃除くらいは機械化の余地があるかもしれないが。

必要な考え方は、こうだ。イノベーションを興して経済競争を促しやすい仕事は産業の現場に、イノベーションが置きにくく競争がうまく働かない仕事は、それ以外で。この住み分けが必要なのだ。これは社会を分断することではない。人々は、このどちらにも属しているし、就業と失業の繰り返しが恒常化すれば、その間を行き来することになる。誰もが産業の現場と社会に生きていることを自覚的に捉えれば、社会の維持が産業の維持にとって必要不可欠だと考えるだろう。将来に絶望したり、スラム化が進んでいく環境で、どうしてイノベーションの芽が出てこようか。どうして、活発な経済活動が維持できようか。社会を守ることは経済を守ることであり、経済を守ることは社会を守ることなのだ。社会保障とは、文字通り、「社会を保障する」ものでなくてはならない。人々と社会を守るものでなければならないのだ。経済的な理由で生じる困窮は、誰にとっても損害なのだ。社会にとっても、経済にとっても。対価の見合わない仕事には、必要最小限の保障はしなければならない。それが社会を維持して活性化させる原動力となる。

ところで。「社会保障が必要なことはわかった。しかしそれなら、衣食住を保障すればよいのではないか。なぜ、どんな使われ方をされるかわからない現金を支給する必要があるのだ」と思われたことだろう。これはたしかに異論があってしかるべきで、ベーシック・インカムに限らず社会保障のあり方は、多くの人々が議論をするべきだと思う。次回、予定では完結編になるはずなのだが(笑)、ベーシック・インカムについての私見を書いてみたい。

(続く)。

2010年2月27日土曜日

BI : ベーシック・インカムに対する覚書(その三)

前回の続きから、すこし。「産業社会からはじき出される人達がいても、それは少数ではないのか。その人達だけ手当てをすればよいのではないか」と思われた人も多いと思う。しかし忘れないでほしい。イノベーションが活発な社会というのは、産業の入れ替わりもまた活発なのだ。経済基盤の基幹たるエネルギー産業など、そもそも産業競争と折り合いが悪いというか、へたに競争させると社会的損失が大きい産業はともかく、多くの企業は競争によって利益を得ているし、そうである以上、栄枯盛衰は避けられない。失業というものは本来、「誰にでも起こる問題」なのだ。というか、本来、「失業の可能性を考えなくてもすむ」という状況がおかしいのだ。失業しても能力が高い人間は就業の機会もまた多いだろうが、人材についても市場競争力が求められる時代で、誰が未来を見通せるだろうか。大企業であっても倒産する、という事態を、我々は何度も見てきているではないか。ところで、エネルギー産業もそろそろ、そう安穏とはしていられないんでしたっけ。

それでは、産業社会の安定を破壊するイノベーションは悪なのか。我々は儲かっている企業に儲けてもらい、そのおこぼれにあずかって暮らすだけの生活しか許されないのか。そんなことはないし、そもそも、そういう対立的な思考が問題なのだ、というのが、今回のテーマ。その前編です。

競争が活発に行われ、イノベーションが頻繁に起きることを「悪」と考える人は、産業競争社会に対して否定的な見解を持つ人ぐらいだろう。いや、意外ともっと多いかもしれないが、忘れないでほしい。どんな社会保障体制であれ、自由な経済活動下でなければ原資を生み出すことはできない。社会保障体制を充実させるためには、すくなくとも経済競争が適切な法の下で活発に行われる必要が、いや、それが絶対条件なのだ。我々はしばしば「富の集中」を危惧するが、イノベーションが活発に行われ、市場の長期的な独占が起きなければ、富が集中してもそれは一時的なものだ。富の集中や独占は、産業競争から生じるのではない。富を独占しようとする動きから生じるのだ。それは、イノベーションを否定したり、巨大資本によって競争相手を不当に排除しようとする行為、それになにより「変化を好まない人々」から生まれるのだ。常に新しいプレイヤーが参入し、適切な法の下に競争が行われれば、どんな巨大資本でも倒され、市場から退場する。そういう「あたりまえの光景」を我々は見ているはずだ。あるいは、資本家は儲かっている、と考えるかもしれない。しかし、資本家の財力の中心にあるのは、土地でもゴールドでもない。投資だ。企業が収益をあげれば儲かるが、失敗すれば、すべてはパーだ。不当な株主保護といった問題はあるかもしれないが、それはそもそも法律違反なのだ。常にチェックを怠らず、発覚した場合は懲罰的な償いをさせればいい話だ。土地の価格にせよ、ゴールドにせよ、適切な競争が行われれば、適切な価格に落ち着く。現在の社会は土地やゴールドが、必ずしも資本力を生み出す元とはなりえない社会なのだ。みんな幻想に囚われているのだ。土地もゴールドも持たないが、儲けている人々は少なくないだろう。

さて、イノベーションや産業競争社会について擁護するのは終わりにしよう。本題はここからだ。産業競争を活発化させ、社会を常に活性化させることに必要なものはなんだろうか、それは、「豊かな経済と安定した社会」である。「また、あたりまえのことしか書いてない」と思った人も多いだろう。しかし、だ。我々の社会は、なにか特別な力が働いて動いているわけではない。あたりまえの人が、あたりまえの生活をして、あたりまえの人生を送る、ただ、それだけのことで動いているのだ。処方箋も、「あたりまえのこと」になるのは当然だろう。いまがおかしいのは、「あたりまえのことがあたりまえでないから」おかしいのだ。社会をあたりまえの状態に戻そう。

経済活動というのは、単純に言えば「お客さんにサービスを売って儲け、それを元手にさらにサービスを売る」ということの繰り返しだ。お客さんがお金を持っていなければ、商売は成り立たないし、新しい売り手が商売をはじめようとしても失敗する。お客さんに借金をさせる、という手もあるが、そもそも返せるアテがなければ、それも成り立たない。まあ、バブルというのはその感覚が麻痺することなのだが、あれは誰でも罹る風邪のようなものだ。風邪を恐れてなにもしないのでは本末転倒なので、注意して風邪をひかないように、患った場合は早く治るように健康管理に注意しよう。さて、話を戻して。産業競争の基盤として豊かな経済社会が必要、ということは誰も異論が無いだろう。まあ、発展途上の社会の場合は、「豊かな経済が期待できる社会」ということになるが、本質的な意味は同じだ。誰もが安心してお金を使える社会。それが無くては経済は成り立たない。じつは、多くの人達が、この点を誤解している。

経済の主導権は、産業の送り手である「資本/企業」の側にあるのではなくて、「労働者であり、なにより消費者である我々」の側にある。近代産業の勃興期には、たしかに大資本家が労働者を搾取して暴利を貪っていた時代もあった。しかし、それは過去の話だ。繰り返すが、現代社会は、巨大産業/巨大企業といえど、消費者に見放されれば、経済のプレイヤーの地位から転落する。どんな企業でも安穏とはしていられない。それにあたりまえの話だが、市場が壊滅したり、縮小したりして困るのは、もちろん消費者も困るのだが、企業の側だ。労働者の暮らしの基盤である社会を守る義務は、どんな企業にも課せられる。これは特別な話ではない。欧米で企業の社会貢献度等についてランク付けがなされたりしているのは、この思想に寄るものだ。「社会があってはじめて企業活動がある」というのは、経済社会に生きる限り、どの国にも適用できる考え方なのだ。

ところで、企業は失業した労働者にも金品を渡したり生活を保障したりして、豊かな消費者として振舞ってもらうべきなのだろうか。なるほど、それができれば、その企業に対する社会の信頼も厚くなるだろうし、将来も安泰かもしれない。しかし、ありえないだろう。企業の利益は、労働者に対する報酬等もさることながら、さらなる企業活動の原資として使われるものだ。多少は失業対策にまわせるかもしれないが、産業競争の結果によって生み出される、多くの「元労働者」を救う力はない。労働者は労働者で、それなりになんとかしてもらわなければならない。さて、産業の新陳代謝は、失業者だけを多く生み出すものなのだろうか。

労働力は余る傾向にある。これが「残酷な私のテーゼ」だ。現代の企業では、「少ない労働者で多くの生産性を生み出す」ことを至上命題としている。社会貢献を考えて多くの労働者を雇うことを考える経営者もいるかもしれないが、それでも利益の範囲内だろう。経済全体から見れば誤差にもならないと考える。しかし、ここで注意してもらいたい。私は「労働者が余る」とは書いていない。「労働力が余る」と書いているのだ。この違いが意味するものは何か。答えは、イノベーションと産業の新陳代謝だ。

単純な話ばかりで恐縮だが、これも単純な話なのだ。多くの産業が消滅し、多くの産業が勃興すれば、その都度「必要とされる労働力/労働者は変化する」のだ。誰にでも働くチャンスはあるのである。というか、労働者の教育コストもバカにはならない。既存の産業の置き換え、たとえば、飲食業の起業なら、既存の業界からスカウトするか、潰れた店から経験者を雇うほうが教育コストは少なくてすむ。現代の産業はマニュアル化が進み、業種が似ていれば、驚くほど似たようなオペレーションになることが多い。そもそも、「わが社のやり方」などと言っていては、競争に負けてしまうのだ。イノベーションも重要だ。まったく新しい産業が興れば、いまの話とは逆に、これまでの常識が通用しなくなる。既存の報道産業の多くがネット時代に適応できず、苦労している様を見た人も多いだろう。イノベーションが興り続ける限り、我々は常に新しい社会に挑戦し続けることができるのだ。

しかし、だ。そうはいっても、イノベーションの波にうまく乗れない人達もいるだろう。チャンスが回ってくるまで待つしかない人も多いことだろう。そういう状況に対して、社会や、なにより我々はどのように考えなければならないのか、というところで、ようやく話はベーシック・インカムなどの「社会のあり方」に入ります(続く)。

2010年2月26日金曜日

BI : ベーシック・インカムに対する覚書(その二)

ベーシック・インカムに対して否定的な人は、しばしば「働かなくても暮らしていくことができるようになれば、人はけして働こうとしない」あるいは、「健常者なのに働こうとしないのはおかしい」といった意見を述べることが多い。労働に対するモチベーションの問題は、たしかに頭の痛い問題だが、すこし待ってほしい。現在の社会には、「働く意思と意欲があっても働けない人」という人々が、けして少なくない数で存在する。これはどういうことなのだろうか。

生産物の過剰とかオートメーション化の問題とか、まあ色々と論はあるが、もうすこしわかりやすい話をしよう。「働けない人」というのは、「企業が求めるだけの労働力/必要とする資質を持たない人、あるいは、人員として必要ない人/余る人」なのだ。ようするに、「使えない人/必要ない人」ということである。なにをあたりまえのことを、と思ったことだろう。しかし、根本的な問題はここにある。

我々の社会は、たとえば日本では、戦後の復興期から現在まで、たゆまぬ努力を続けて産業競争力を高めてきた。現在もそれは続いている。未来永劫続くかどうかはわからないが、すくなくとも当分の間は続くだろう。これから産業の発展期にある社会は少なくないのだから。ベーシック・インカムに限らず社会保障の原資となるものは、経済力/経済発展によってもたらされる。である以上、どのような社会保障体制を求めるにせよ、それは経済発展に寄与するものでなければならず、まかり間違っても、経済発展の足をひっぱるものであってはならない。経済至上主義に違和感を持ち、ベーシック・インカム等に賛同する人達も多いと思うが、経済が発展しなければパイは増えない。パイの増えない経済は、いずれ破綻する。人類は愚かではないが、残念ながら賢明でもないのだ。

経済を発展させるためにはどのよう社会を構築すればよいのだろうか。企業の生産活動を促し、市場の求めに応じてサービスを行い、それを果たせない産業には速やかに退場してもらう。イノベーションを活性化させ、常に産業の新陳代謝が行われる社会。いまどきなら小学生でもこう答えるだろう。社会の現場にいれば、なおさらだ。さて、特に社会人として日々の仕事に勤しむ人達に問いたい。あなたの職場で、あるいは取引先で、あるいはサービスを受ける場で、「使えない人とは言わないが、仕事にあまり寄与していない人」という人達を見たことはないだろうか。私はある。というか、私自身がそう評価されたことがある(苦笑)。会社の収益が順調であれば、そういう人達にも居場所や仕事はあるだろう。しかし競争によって収益の向上を求められたり、仕事そのものの内容や技術の向上が求められたとき、果たしてその人達の仕事や居場所は残されているのだろうか。

経済を発展させるための競争というものは過酷だ。企業に余裕があれば企業内教育等を使って、労働者の能力を向上させることも、あるいはできるかもしれない。しかし、誰もが同じ能力を持たないように、誰もが企業収益に常に貢献できるわけではない。労働組合は労働者の働く権利を守るために活動することを使命としていて、それはそれで必要なことだが、労組の力が強すぎる企業が、市場からどのような扱いを受けているのか、我々は知っている。労働者の権利を守るために、どれだけ税金を投入してもかまわない、と考える人達は、かなり少数なのではないだろうか。あなたはどうだろう。

「いや、それは労働市場が硬直化しているためなのだ。正社員も含めて労働力が流動化すれば、産業発展を維持しつつ、労働者の権利も守られる」という人達もいるだろう。個人的な言い方を許してもらえば、「おめでたい」と言いたい。大企業ならともかく中小企業の多くでは、無駄な労働力というものをは、ほとんど無い。基本的にギリギリの労働力で維持されているのが現状だし、競争力が低下すれば、容赦なく解雇が行われる。譲って正社員の雇用を守るために努力していることを認めたとしても、その企業に待っているのは、倒産だ。日本の企業の大半は、じつは中小企業で占められており、倒産や起業によって、それなりに人材の流動化は起きているのだ。硬直化している方が一部なのだ。

とはいっても、労働力の流動化そのものは悪くない。むしろ必要なことだ。産業競争力の無い企業に人が残り、新しい産業に労働者が移動しないのは、誰にとっても損失だ。問題になってくるのは、「労働移動」のほうなのだ。人間は極めて適応能力が高く、その気になれば様々な状況に対応できる。労働集約型産業、早い話が製造業が中心であった時代には、人の数はそのまま生産力に繋がった。産業技術が高度化していっても、イノベーションによって新規産業が興り、新しい労働力として「人手」が要求されてきた。この繰り返しで産業は発展してきたのだが、果たして、これは未来永劫続くことなのだろうか。たしかに、産業技術は発展し続けるだろうし、新規産業も起き続けるだろう。しかし、「人手」はどうだろうか。製造産業どの分野にも言えることだが、「より少ない人数で、より多くの生産を」という要請が基本なのではないだろうか。加えて、現在の社会はかつて発展途上国とされていた国々が産業化し、日本の後を追っている。生産能力は日々向上し続けるわけで、ますます労働者の仕事は減っていく。

「製造業はアウトッ!これからはサービス業の時代だっ」という人も多い。私も同意見だ。先進諸国の実情を見ても、従来型の成長戦略にこだわり続けるのは得策ではない。ところで、サービス産業というのは、多数の人間がオペレートしなければならない仕事なのだろうか。

長年、製造現場や一次産業に従事してきた人達が、すんなりとサービス産業に移行できるとは考えにくいのだが、人間の向上心はすばらしいのでそこは考えないでおこう。明日からバリバリOSのコードを書いたり、マクドナルドでスマイル以外を売ったり、ファミリーレストランの厨房に立つ人が増えるとしよう。雇用問題は解決だ。ところで、それらの産業のパイは、他の産業から移行してきた労働者に十分に行き渡るものなのだろうか。

サービス産業は労働集約型産業よりさらに「少人数によるオペレートで利益を上げる」構造になっている。製造業にくらべて労働生産性の低さが指摘されている日本のサービス産業だが、国際競争力が激化し、IT化が進む昨今、その指摘は過去のものとなるだろう。ならない企業は廃業/倒産するだけだ。たしかに、サービス産業は消費者の多種多様な要求を満たすものであり、それゆえに多数の種類が社会に存在することになる。すべてがユニクロで占められるわけでもなく、消費者はスターバックスしか飲まないわけではない。しかし、消費者の財布には限界があり、その欲求にも限界がある。当然、すべての企業が生き残れるわけではない。むしろ新陳代謝はどの産業よりも激しい。新陳代謝自体は望ましいのだが、産業が入れ替わる間、労働者はどこに行けばよいのだろうか。それに忘れないでほしい。そもそもこの産業は、他の産業からの流入者を受け止めるだけのパイがあるのだろうか。

あるいは、「低賃金労働市場は多数あり、それは常に人員不足なのだから、そこに行けばよい」と考える人もいるだろう。しかし待ってほしい。なぜ、その企業は「低賃金でしか人を雇えない」のだろうか。売り手市場なら賃金は上がるはずだ。たしかに福祉分野等は様々な規制のために賃金の改善は難しいのかもしれないが、それ以外にも低賃金労働は多数存在する。その賃金で働く外国人労働者も多い。なぜか。それは、賃金を上げればコストが見合わない、つまるところ、産業競争力が低いか無いために低賃金なのだ。そんな企業は長続きはしない。いずれ国外に仕事を取られるだろう。譲ってそれらの企業が残ったとしても、パイの問題は同様に残る。むしろ、低賃金労働にしか移行先が無くなれば、それすらも買い手市場になるだろう。

海外市場に期待を抱く人も多いだろうが、ちょっと考えてほしい。産業化が進み経済が発展しつつあるかつての発展途上国は、いまも資源や原材料/食料の輸出を経済の基盤に置いているのだろうか。違うだろう。彼らは彼らで産業競争力のあるサービスを生み出し、それによって富を得ているのだ。海外市場というのは顧客であると同時に商売敵なのだ。それに、その土地でサービスを展開するとき、日本の社員を教育して送り出す場合と、現地の有能な人員を雇う場合と、どちらが低コストで合理的だろうか。むしろ、日本人にこだわることのほうがリスキーな結果を生みはしないだろうか。日本流が通用するのは日本国内だけなのだから。

そろそろ締めよう。結論は単純だ。労働力は余る傾向にある。教育の効果について、私はかなり甘い評価を下してきた。現実には、新しい仕事になじめず続けられない人も多いだろう。譲って職業教育が効果をあげるとしても、親元から離れられないなどの様々な理由で、職場や職業を選択できない人も多いだろう。専門性の高い職業は、そもそも競争が激しい。能力があっても、その職につけない人達も少なくはない。繰り返す。労働力は余る傾向にあるのだ。人口減少が進み、均衡する点にまで至ればあるいは改善する問題なのかもしれないが、それがいつなのかは誰にもわからない。

これは、どのみちやってくる問題だ。ベーシック・インカムの有無は関係ないし、経済発展を否定すれば、むしろ早まる話なのだ。いや、正確に言おう。「いまここにある危機」なのだ。「働かないことが問題」になるのではない、「働けないことが問題」になのだ。

暗い話で終わったところで、次はもう少し夢のある(かもしれない)話です。

2010年2月25日木曜日

BI : ベーシック・インカムに対する覚書(その一)

先日、ニコニコ生放送で放送された「朝までニコニコ生激論『ベーシックインカム(キリッ』」に関連した議論が Twitter 上で続けられている。というか、ベーシック・インカムについての議論が熱く盛り上がっているといったほうが正しい。それだけ関心の高い話題だということは、ベーシック・インカムの実現を期待するひとりとしては、喜ばしくもあり、また心強い。

しかし、まってほしい。ベーシック・インカムは果たして、理想的な制度なのだろうか。制度設計にもよるが、「最低限所得保障」という日本語があてられているように、これは基礎的な所得を保証する制度に過ぎない。個人的な言い回しになるが、「経済的な問題が理由で死ななくてもすむ保障」でしかないのだ。ここで憲法25条を参照しよう。

1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

ベーシック・インカムの支給額については、一部の試算では、「ひとりあたり月額5-7万程度」と考えられている。この試算が妥当か否かはさておき、政治的な説得や財源確保の問題を考えたとき、「生活のすべての要求を十分に満たせる額」というのは、夢物語に過ぎないことは論を待つまでもないだろう。しかし一方で、あまりに小額であれば、「最低限度の生活を保障する」という理念、そして現実的な要請に反する。これはどのように考えるべきなのだろうか。

ベーシック・インカムは最低限の所得を保証する。逆に言えば、「最低限の所得しか保証されない」のである。憲法25条にある権利をすべて満たす力は、はっ きり言ってベーシック・インカムには無い。あたりまえのことだが、ベーシック・インカムも制度のひとつにすぎない以上、その力が及ぶ範囲は限定的だ。それ 以外の制度や考え方が要求されるのだ。それでは、必要とされる最低限の保障とは、果たしていくらなのだろうか。

医療保障や障害者保障など、そもそも身体的な問題を持つ人々についてはベーシック・インカム以外にも保障制度が維持される、というのが前提なので、ここではあくまで健常者を対象に考えよう。単純に考えれば、生存に必要な生活空間の維持費(光熱費なども含む)と栄養学的に十分な食費が維持されれば、すくなくとも餓死はしないだろう。最低限度の医療保障もつけよう。これなら、そう簡単に死の危険と隣り合わせになることは無い。さて市民、あなたは幸せですか?

ありえないだろう。カプセルホテルか四畳半アパートに篭って三度のメシが保障される。でもそれだけの生活。対人恐怖症でも患っているのならともかく、健常者がこんな生活で満足するはずがない。好きなことをやって暮らす? いまギリギリの生活を強いられているならともかく、可処分所得が残る生活なら、好きなことに使える金は出るでしょう。それでは足りない、という人は、けっきょくガムシャラに働くしかない。いまとどこが違う。好きなことを仕事に、という人は夢をみないほうがいい。いま市場価値が認められていない行為は、「人の意識が変わらない限り」仕事としては認められない。価値を認めてもらえないから、お金が回ってこないのだ。最低の保障で生きていくことに意義を見出せる「強い人」しか、最低の生活を維持し続けることはできないのだ。

健康で文化的な生活を送りたいのであれば、それに向けて努力するしかない。国家の役割は、それを後押しすることなのだ。あるいは、阻害する要因を取り除くことなのだ。貧困は、その最大の阻害要因のひとつだ。ベーシック・インカムは貧困の撲滅には寄与するだろう。しかし、それだけでしかない。社会を良くしたいのであれば、考えることは数限りない。

(まだ少し続きます(CV:亀仙人))