ベーシック・インカムに対して否定的な人は、しばしば「働かなくても暮らしていくことができるようになれば、人はけして働こうとしない」あるいは、「健常者なのに働こうとしないのはおかしい」といった意見を述べることが多い。労働に対するモチベーションの問題は、たしかに頭の痛い問題だが、すこし待ってほしい。現在の社会には、「働く意思と意欲があっても働けない人」という人々が、けして少なくない数で存在する。これはどういうことなのだろうか。
生産物の過剰とかオートメーション化の問題とか、まあ色々と論はあるが、もうすこしわかりやすい話をしよう。「働けない人」というのは、「企業が求めるだけの労働力/必要とする資質を持たない人、あるいは、人員として必要ない人/余る人」なのだ。ようするに、「使えない人/必要ない人」ということである。なにをあたりまえのことを、と思ったことだろう。しかし、根本的な問題はここにある。
我々の社会は、たとえば日本では、戦後の復興期から現在まで、たゆまぬ努力を続けて産業競争力を高めてきた。現在もそれは続いている。未来永劫続くかどうかはわからないが、すくなくとも当分の間は続くだろう。これから産業の発展期にある社会は少なくないのだから。ベーシック・インカムに限らず社会保障の原資となるものは、経済力/経済発展によってもたらされる。である以上、どのような社会保障体制を求めるにせよ、それは経済発展に寄与するものでなければならず、まかり間違っても、経済発展の足をひっぱるものであってはならない。経済至上主義に違和感を持ち、ベーシック・インカム等に賛同する人達も多いと思うが、経済が発展しなければパイは増えない。パイの増えない経済は、いずれ破綻する。人類は愚かではないが、残念ながら賢明でもないのだ。
経済を発展させるためにはどのよう社会を構築すればよいのだろうか。企業の生産活動を促し、市場の求めに応じてサービスを行い、それを果たせない産業には速やかに退場してもらう。イノベーションを活性化させ、常に産業の新陳代謝が行われる社会。いまどきなら小学生でもこう答えるだろう。社会の現場にいれば、なおさらだ。さて、特に社会人として日々の仕事に勤しむ人達に問いたい。あなたの職場で、あるいは取引先で、あるいはサービスを受ける場で、「使えない人とは言わないが、仕事にあまり寄与していない人」という人達を見たことはないだろうか。私はある。というか、私自身がそう評価されたことがある(苦笑)。会社の収益が順調であれば、そういう人達にも居場所や仕事はあるだろう。しかし競争によって収益の向上を求められたり、仕事そのものの内容や技術の向上が求められたとき、果たしてその人達の仕事や居場所は残されているのだろうか。
経済を発展させるための競争というものは過酷だ。企業に余裕があれば企業内教育等を使って、労働者の能力を向上させることも、あるいはできるかもしれない。しかし、誰もが同じ能力を持たないように、誰もが企業収益に常に貢献できるわけではない。労働組合は労働者の働く権利を守るために活動することを使命としていて、それはそれで必要なことだが、労組の力が強すぎる企業が、市場からどのような扱いを受けているのか、我々は知っている。労働者の権利を守るために、どれだけ税金を投入してもかまわない、と考える人達は、かなり少数なのではないだろうか。あなたはどうだろう。
「いや、それは労働市場が硬直化しているためなのだ。正社員も含めて労働力が流動化すれば、産業発展を維持しつつ、労働者の権利も守られる」という人達もいるだろう。個人的な言い方を許してもらえば、「おめでたい」と言いたい。大企業ならともかく中小企業の多くでは、無駄な労働力というものをは、ほとんど無い。基本的にギリギリの労働力で維持されているのが現状だし、競争力が低下すれば、容赦なく解雇が行われる。譲って正社員の雇用を守るために努力していることを認めたとしても、その企業に待っているのは、倒産だ。日本の企業の大半は、じつは中小企業で占められており、倒産や起業によって、それなりに人材の流動化は起きているのだ。硬直化している方が一部なのだ。
とはいっても、労働力の流動化そのものは悪くない。むしろ必要なことだ。産業競争力の無い企業に人が残り、新しい産業に労働者が移動しないのは、誰にとっても損失だ。問題になってくるのは、「労働移動」のほうなのだ。人間は極めて適応能力が高く、その気になれば様々な状況に対応できる。労働集約型産業、早い話が製造業が中心であった時代には、人の数はそのまま生産力に繋がった。産業技術が高度化していっても、イノベーションによって新規産業が興り、新しい労働力として「人手」が要求されてきた。この繰り返しで産業は発展してきたのだが、果たして、これは未来永劫続くことなのだろうか。たしかに、産業技術は発展し続けるだろうし、新規産業も起き続けるだろう。しかし、「人手」はどうだろうか。製造産業どの分野にも言えることだが、「より少ない人数で、より多くの生産を」という要請が基本なのではないだろうか。加えて、現在の社会はかつて発展途上国とされていた国々が産業化し、日本の後を追っている。生産能力は日々向上し続けるわけで、ますます労働者の仕事は減っていく。
「製造業はアウトッ!これからはサービス業の時代だっ」という人も多い。私も同意見だ。先進諸国の実情を見ても、従来型の成長戦略にこだわり続けるのは得策ではない。ところで、サービス産業というのは、多数の人間がオペレートしなければならない仕事なのだろうか。
長年、製造現場や一次産業に従事してきた人達が、すんなりとサービス産業に移行できるとは考えにくいのだが、人間の向上心はすばらしいのでそこは考えないでおこう。明日からバリバリOSのコードを書いたり、マクドナルドでスマイル以外を売ったり、ファミリーレストランの厨房に立つ人が増えるとしよう。雇用問題は解決だ。ところで、それらの産業のパイは、他の産業から移行してきた労働者に十分に行き渡るものなのだろうか。
サービス産業は労働集約型産業よりさらに「少人数によるオペレートで利益を上げる」構造になっている。製造業にくらべて労働生産性の低さが指摘されている日本のサービス産業だが、国際競争力が激化し、IT化が進む昨今、その指摘は過去のものとなるだろう。ならない企業は廃業/倒産するだけだ。たしかに、サービス産業は消費者の多種多様な要求を満たすものであり、それゆえに多数の種類が社会に存在することになる。すべてがユニクロで占められるわけでもなく、消費者はスターバックスしか飲まないわけではない。しかし、消費者の財布には限界があり、その欲求にも限界がある。当然、すべての企業が生き残れるわけではない。むしろ新陳代謝はどの産業よりも激しい。新陳代謝自体は望ましいのだが、産業が入れ替わる間、労働者はどこに行けばよいのだろうか。それに忘れないでほしい。そもそもこの産業は、他の産業からの流入者を受け止めるだけのパイがあるのだろうか。
あるいは、「低賃金労働市場は多数あり、それは常に人員不足なのだから、そこに行けばよい」と考える人もいるだろう。しかし待ってほしい。なぜ、その企業は「低賃金でしか人を雇えない」のだろうか。売り手市場なら賃金は上がるはずだ。たしかに福祉分野等は様々な規制のために賃金の改善は難しいのかもしれないが、それ以外にも低賃金労働は多数存在する。その賃金で働く外国人労働者も多い。なぜか。それは、賃金を上げればコストが見合わない、つまるところ、産業競争力が低いか無いために低賃金なのだ。そんな企業は長続きはしない。いずれ国外に仕事を取られるだろう。譲ってそれらの企業が残ったとしても、パイの問題は同様に残る。むしろ、低賃金労働にしか移行先が無くなれば、それすらも買い手市場になるだろう。
海外市場に期待を抱く人も多いだろうが、ちょっと考えてほしい。産業化が進み経済が発展しつつあるかつての発展途上国は、いまも資源や原材料/食料の輸出を経済の基盤に置いているのだろうか。違うだろう。彼らは彼らで産業競争力のあるサービスを生み出し、それによって富を得ているのだ。海外市場というのは顧客であると同時に商売敵なのだ。それに、その土地でサービスを展開するとき、日本の社員を教育して送り出す場合と、現地の有能な人員を雇う場合と、どちらが低コストで合理的だろうか。むしろ、日本人にこだわることのほうがリスキーな結果を生みはしないだろうか。日本流が通用するのは日本国内だけなのだから。
そろそろ締めよう。結論は単純だ。労働力は余る傾向にある。教育の効果について、私はかなり甘い評価を下してきた。現実には、新しい仕事になじめず続けられない人も多いだろう。譲って職業教育が効果をあげるとしても、親元から離れられないなどの様々な理由で、職場や職業を選択できない人も多いだろう。専門性の高い職業は、そもそも競争が激しい。能力があっても、その職につけない人達も少なくはない。繰り返す。労働力は余る傾向にあるのだ。人口減少が進み、均衡する点にまで至ればあるいは改善する問題なのかもしれないが、それがいつなのかは誰にもわからない。
これは、どのみちやってくる問題だ。ベーシック・インカムの有無は関係ないし、経済発展を否定すれば、むしろ早まる話なのだ。いや、正確に言おう。「いまここにある危機」なのだ。「働かないことが問題」になるのではない、「働けないことが問題」になのだ。
暗い話で終わったところで、次はもう少し夢のある(かもしれない)話です。
2010年2月26日金曜日
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