前回の続きから、すこし。「産業社会からはじき出される人達がいても、それは少数ではないのか。その人達だけ手当てをすればよいのではないか」と思われた人も多いと思う。しかし忘れないでほしい。イノベーションが活発な社会というのは、産業の入れ替わりもまた活発なのだ。経済基盤の基幹たるエネルギー産業など、そもそも産業競争と折り合いが悪いというか、へたに競争させると社会的損失が大きい産業はともかく、多くの企業は競争によって利益を得ているし、そうである以上、栄枯盛衰は避けられない。失業というものは本来、「誰にでも起こる問題」なのだ。というか、本来、「失業の可能性を考えなくてもすむ」という状況がおかしいのだ。失業しても能力が高い人間は就業の機会もまた多いだろうが、人材についても市場競争力が求められる時代で、誰が未来を見通せるだろうか。大企業であっても倒産する、という事態を、我々は何度も見てきているではないか。ところで、エネルギー産業もそろそろ、そう安穏とはしていられないんでしたっけ。
それでは、産業社会の安定を破壊するイノベーションは悪なのか。我々は儲かっている企業に儲けてもらい、そのおこぼれにあずかって暮らすだけの生活しか許されないのか。そんなことはないし、そもそも、そういう対立的な思考が問題なのだ、というのが、今回のテーマ。その前編です。
競争が活発に行われ、イノベーションが頻繁に起きることを「悪」と考える人は、産業競争社会に対して否定的な見解を持つ人ぐらいだろう。いや、意外ともっと多いかもしれないが、忘れないでほしい。どんな社会保障体制であれ、自由な経済活動下でなければ原資を生み出すことはできない。社会保障体制を充実させるためには、すくなくとも経済競争が適切な法の下で活発に行われる必要が、いや、それが絶対条件なのだ。我々はしばしば「富の集中」を危惧するが、イノベーションが活発に行われ、市場の長期的な独占が起きなければ、富が集中してもそれは一時的なものだ。富の集中や独占は、産業競争から生じるのではない。富を独占しようとする動きから生じるのだ。それは、イノベーションを否定したり、巨大資本によって競争相手を不当に排除しようとする行為、それになにより「変化を好まない人々」から生まれるのだ。常に新しいプレイヤーが参入し、適切な法の下に競争が行われれば、どんな巨大資本でも倒され、市場から退場する。そういう「あたりまえの光景」を我々は見ているはずだ。あるいは、資本家は儲かっている、と考えるかもしれない。しかし、資本家の財力の中心にあるのは、土地でもゴールドでもない。投資だ。企業が収益をあげれば儲かるが、失敗すれば、すべてはパーだ。不当な株主保護といった問題はあるかもしれないが、それはそもそも法律違反なのだ。常にチェックを怠らず、発覚した場合は懲罰的な償いをさせればいい話だ。土地の価格にせよ、ゴールドにせよ、適切な競争が行われれば、適切な価格に落ち着く。現在の社会は土地やゴールドが、必ずしも資本力を生み出す元とはなりえない社会なのだ。みんな幻想に囚われているのだ。土地もゴールドも持たないが、儲けている人々は少なくないだろう。
さて、イノベーションや産業競争社会について擁護するのは終わりにしよう。本題はここからだ。産業競争を活発化させ、社会を常に活性化させることに必要なものはなんだろうか、それは、「豊かな経済と安定した社会」である。「また、あたりまえのことしか書いてない」と思った人も多いだろう。しかし、だ。我々の社会は、なにか特別な力が働いて動いているわけではない。あたりまえの人が、あたりまえの生活をして、あたりまえの人生を送る、ただ、それだけのことで動いているのだ。処方箋も、「あたりまえのこと」になるのは当然だろう。いまがおかしいのは、「あたりまえのことがあたりまえでないから」おかしいのだ。社会をあたりまえの状態に戻そう。
経済活動というのは、単純に言えば「お客さんにサービスを売って儲け、それを元手にさらにサービスを売る」ということの繰り返しだ。お客さんがお金を持っていなければ、商売は成り立たないし、新しい売り手が商売をはじめようとしても失敗する。お客さんに借金をさせる、という手もあるが、そもそも返せるアテがなければ、それも成り立たない。まあ、バブルというのはその感覚が麻痺することなのだが、あれは誰でも罹る風邪のようなものだ。風邪を恐れてなにもしないのでは本末転倒なので、注意して風邪をひかないように、患った場合は早く治るように健康管理に注意しよう。さて、話を戻して。産業競争の基盤として豊かな経済社会が必要、ということは誰も異論が無いだろう。まあ、発展途上の社会の場合は、「豊かな経済が期待できる社会」ということになるが、本質的な意味は同じだ。誰もが安心してお金を使える社会。それが無くては経済は成り立たない。じつは、多くの人達が、この点を誤解している。
経済の主導権は、産業の送り手である「資本/企業」の側にあるのではなくて、「労働者であり、なにより消費者である我々」の側にある。近代産業の勃興期には、たしかに大資本家が労働者を搾取して暴利を貪っていた時代もあった。しかし、それは過去の話だ。繰り返すが、現代社会は、巨大産業/巨大企業といえど、消費者に見放されれば、経済のプレイヤーの地位から転落する。どんな企業でも安穏とはしていられない。それにあたりまえの話だが、市場が壊滅したり、縮小したりして困るのは、もちろん消費者も困るのだが、企業の側だ。労働者の暮らしの基盤である社会を守る義務は、どんな企業にも課せられる。これは特別な話ではない。欧米で企業の社会貢献度等についてランク付けがなされたりしているのは、この思想に寄るものだ。「社会があってはじめて企業活動がある」というのは、経済社会に生きる限り、どの国にも適用できる考え方なのだ。
ところで、企業は失業した労働者にも金品を渡したり生活を保障したりして、豊かな消費者として振舞ってもらうべきなのだろうか。なるほど、それができれば、その企業に対する社会の信頼も厚くなるだろうし、将来も安泰かもしれない。しかし、ありえないだろう。企業の利益は、労働者に対する報酬等もさることながら、さらなる企業活動の原資として使われるものだ。多少は失業対策にまわせるかもしれないが、産業競争の結果によって生み出される、多くの「元労働者」を救う力はない。労働者は労働者で、それなりになんとかしてもらわなければならない。さて、産業の新陳代謝は、失業者だけを多く生み出すものなのだろうか。
労働力は余る傾向にある。これが「残酷な私のテーゼ」だ。現代の企業では、「少ない労働者で多くの生産性を生み出す」ことを至上命題としている。社会貢献を考えて多くの労働者を雇うことを考える経営者もいるかもしれないが、それでも利益の範囲内だろう。経済全体から見れば誤差にもならないと考える。しかし、ここで注意してもらいたい。私は「労働者が余る」とは書いていない。「労働力が余る」と書いているのだ。この違いが意味するものは何か。答えは、イノベーションと産業の新陳代謝だ。
単純な話ばかりで恐縮だが、これも単純な話なのだ。多くの産業が消滅し、多くの産業が勃興すれば、その都度「必要とされる労働力/労働者は変化する」のだ。誰にでも働くチャンスはあるのである。というか、労働者の教育コストもバカにはならない。既存の産業の置き換え、たとえば、飲食業の起業なら、既存の業界からスカウトするか、潰れた店から経験者を雇うほうが教育コストは少なくてすむ。現代の産業はマニュアル化が進み、業種が似ていれば、驚くほど似たようなオペレーションになることが多い。そもそも、「わが社のやり方」などと言っていては、競争に負けてしまうのだ。イノベーションも重要だ。まったく新しい産業が興れば、いまの話とは逆に、これまでの常識が通用しなくなる。既存の報道産業の多くがネット時代に適応できず、苦労している様を見た人も多いだろう。イノベーションが興り続ける限り、我々は常に新しい社会に挑戦し続けることができるのだ。
しかし、だ。そうはいっても、イノベーションの波にうまく乗れない人達もいるだろう。チャンスが回ってくるまで待つしかない人も多いことだろう。そういう状況に対して、社会や、なにより我々はどのように考えなければならないのか、というところで、ようやく話はベーシック・インカムなどの「社会のあり方」に入ります(続く)。
2010年2月27日土曜日
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