2010年3月8日月曜日

Bi : 覚書のついでに考えたこと(その四)

ベーシック・インカムを否定する意見として、わりと賛同を得やすいものに「働かなくても収入が保証されるのなら、働く人が極端に減る\誰も働かない」というものがあります。現実的な制度設計を考えたとき、この意見には無理な点があって、それは、「誰もが豊かに暮らせるほどの支給額を賄うことは財政的に無理がある」という点です。なるほど、ベーシック・インカムの理想はたしかに「労働からの解放」を謳っていますが、それはあくまで理想論であって、現実の政策としてそれを実現するのは、かなり未来の話でしょう。現実にはほんとに「生きていくのにギリギリの支給額」になると考えます。まあ、これにも抜け道があって、個々人の支給額が低くても集団生活をすれば、けっこうな額を「共有」することが可能ですが、それはそれでもOKだと思います。共同生活を円滑に運営するためには、必然的にコミュニティを形成しなければならなくなり、助け合って暮らしていくことが常態となる。社会生存コストを劇的に下げるためには、コミュニティの再生が不可欠ですから、むしろこの方向は望ましい。

そうは言っても、コミュニティ内部の暮らしで満足されて、労働意欲がまったく無くなるのも困った話です。ところで、なぜ労働意欲が低下したり、無くなったりするのでしょうか。

仕事というのは苦しいもの、辛いもの、という意識は、わりと根深く社会に蔓延しています。ベーシック・インカムが「労働からの解放」を謳うのも、この意識を踏まえてのことでしょう。これは労働に魅力が無いことを意味しています。たしかに、「私達は労働の奴隷として暮らしている」と考える人にとって、働かなくても暮らせるのであれば、積極的に働こうという意識は生まれないでしょう。貧乏な生活でも満足しよう、と考えるのも無理からぬことです。誰も辛い暮らしをしたいとは考えませんから。

しかし、よく考えてください。これはようするに「みんな嫌なこと、辛いことを我慢しながら生活している。それが人生だ」と言っていることになります。労働が必ずしも「嫌なこと、辛いこと」だとは私は考えませんが、今回はそれは別論として置いておきます。嫌なことや辛いことを行うことは、極めて非効率的です。そもそもモチベーションが沸きませんし、働く気のない人間の仕事が、精度が高いわけがありません。そもそも論を言えば、そういう仕事があったり、改善されていないことは社会的損失でもあります。

もちろんここで、「労働というのは辛いことばかりではない。嬉しいことや誇りとすることもある。両側面があるのだ」と考える人も多いでしょう。まったくもってその通りで、どんなことにもプラス面マイナス面があります。だから、我々は労働を続けられるわけなんですが、一方で、私達はそれを伝えているでしょうか。自分の仕事のどんな部分が楽しいのか、あるいは社会の役に立っているのか、誰に喜ばれているのか。あるいは、こう言い換えましょう。私達は自分の仕事のどこに喜びを感じて仕事をしているのか。意外とこの点について無自覚であったり、考えたことのない人が多いのではないでしょうか。すくなくとも私は、「暮らしていけるのなら働かない」と考える人達は、このことに無自覚であろうと考えています。

まあ、たしかに「これはどう考えても奴隷労働と大差ないだろう」と思える仕事も世の中には多いわけで、それはそれで改善していかなければならない問題です。社会にとって不必要なものなら無くなってしかるべきですし、必要な仕事であれば、労働者の待遇改善は喫緊の課題でしょう。これはベーシック・インカムとは関係ない話ですから、直接利害が関係しない限り、誰にでも賛同してもらえることだと考えます。だいたい、必要不可欠な仕事についている人の労働意欲が低いなんてことは、誰にとっても損失なんですよ。

すくなくとも、「労働は辛いばかりではなく、楽しい面もある」と考える人がほとんどになれば、労働意欲の減退には一定の歯止めがかかるでしょう。労働環境の改善は、産業競争力を発展/維持する点でも、必要不可欠なことなんですよ。おかしな労働は改善していきましょう。

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