2010年3月6日土曜日

Bi : 覚書のついでに考えたこと(その三)

労働の喜び、というものを、みなさんはどのような時に感じるのでしょうか。お客さんに喜んでもらったとき、上司に褒められたとき、チームの仲間と仕事を成功させたとき、目標となる成果をあげたとき、形は様々ですが、ようは「仕事で成果を出したとき」に労働の喜びを感じる、という点では共通しているでしょう。では、それが労働の喜びのすべてでしょうか。もちろん違いますよね。給与を貰ったときにも、労働の喜びを感じる人がほとんどでしょう。自分の仕事が認められている、と感じるのは、むしろ給与の額が上がったりボーナスの額が増えていたりするときではないでしょうか。それはなぜかといえば、一番わかりやすい指標となるからです。お金がすべてではない、と考える人でも、報酬の額に色がつけば、やはり「認められている」と実感するでしょう。逆に言えば、お金以外に私たちは、「労働の価値を認めるわかりやすい指標を持っていない」ということです。お金が指標としてわかりやすすぎるから他のものを産み出していないのか、あるいは、お金以外に指標となるものが存在し得ないのか、それはまだわかりませんがしかし、「いま現在、お金以外にわかりやすい指標はない」という事実は重要だと考えます。

ところで、労働意欲を刺激するために、「高い報酬額を約束する」という行動は、どういう意味を持つのでしょうか。その人の能力を認めたうえで、より高い能力の発揮、利益の創出/確保を期待する、ということでしょう。評価と期待の両側面を持っているわけです。これは、額は違いますが能力給等にも適用できる話です。評価と期待のバランスが取れていれば、人は利益もさることながら、良い評価を得ようと必死になって働くでしょう。金額の多寡よりもむしろ、認めてもらうという実感を求めて、かんばる人も多いのではないでしょうか。

この認識は重要です。人は評価されている、期待されている、と感じるときに労働意欲が増す。そしてそれには、「わかりやすい指標が必要」ということ。このどちらが欠けても、労働意欲を持続させることは難しいはずです。「誰にも認められなくてもコツコツと何かを作り続ける人もいる」と考える人もいるかもしれませんが、その人は「労働意欲」とはべつの原理で動いているのだと考えます。それにそもそも、そういう人達は少数でしょう。あるいは、「無報酬労働でもがんばる人達もいる」と考える人もいるかもしれませんが、注意してください。私は「わかりやすい指標が必要」と言っているのです。その人達は金銭以外の、自分達にとってわかりやすい指標を持っているんですよ。

正直な話をすると、私はベーシック・インカムなどが行われても、それだけで低賃金を余儀なくされている、特に介護や保育のような仕事に人々が労働移動を行うのか、はなはだ疑問です。賃金をあげることで労働意欲を上昇させることが難しいこの仕事は、それ以外の手段で労働意欲を担保する必要があります。人々の笑顔や感謝は、たしかに嬉しいものですが、それだけに頼るのは、あるいはそれだけを重視するのは、なにか間違っている気がします。とはいっても、私も「これだっ」という回答は出せません。みなさんにも考えていただきたいと思います。

労働意欲は、「私は認められている、期待されている」と感じるときに、強く産み出されるものです。私たちは、金銭の多寡以外に、この指標となるものを産み出す時期に来ているのかもしれません。それも、わかりやすいものを。

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