2010年3月11日木曜日

BI : 覚書のついでに考えたこと(その五)

今回は住居の話です。

覚書のときにも提言というかアイデアのひとつとして書きましたが、私は「国民皆住居」を理想としています。国民全員に国家が住居を保障する、という制度です。持ち家を推奨している現在の制度とは、真逆の考えです。これにはいくつか理由がありまして、覚書のときには長くなるので書かなかった点について、今回書いてみたいと思います。

ひとつには、なんらかの理由で住居空間を失った人達に、それを提供することを目的としています。災害や失業で住居を失う人達の姿は、誰でも見たことがあるでしょう。経済的にも疲弊しているであろう方たちを救うのは、国家の義務だと考えます。であるならば、常にそれに備えておく制度は必要でしょう。これは理解しやすい話だと考えます。しかし、それだけではありません。問題はここからです(笑)。

そもそも住居というのは、なぜ必要なのでしょうか。あたりまえの話ですが、生活のもっとも基盤となるものであり、それが無い場合は生存そのものに重大な危機が訪れる可能性があるためです。ホームレスでも常に路上にいるわけではなく、どこかに雨風をしのげる場所をみつけ、そこに集うでしょう。なんらかの形で住む場所が無ければ、行政のサポートも受けられません。国民の誰もが絶対必要としているものであるなら、それを提供する義務は国家にある、と私は考えます。生存権を保障しているのであれば、その基盤の整備を行うことは当然でしょう。住める場所が無い、などということは、そもそも文明国としておかしいんですよ。

もうひとつ。これはけっこう異論を持つ方も多いとおもいますが、私は「住居を持つ/持たないという選択については、誰でも自由であるべきだ」と考えています。基礎的な住居空間を国家が保障し、そのうえで「持ち家」を持つかどうかは、個人の選択に委ねるべきだ、という考えです。よく考えてみてください。いま現在、家屋なりマンションなりを購入するという行為は「一生の買い物」と呼ばれるほど、高価な選択になっています。労働に費やす年月のほとんどをローンの支払いに使ってしまう。それでも数代に渡って利用できる住居ならまだいいんですが、かなりのものが、せいぜい二世代も持つか持たない代物だったりします。こんなものを財産などと呼べるでしょうか。

持ち家の問題は他にもあります。ローンの期間が長すぎるために、途中で職場が倒産したりリストラが行われたりすれば、とたんに経済的に大きな問題が生じることです。現実問題、ローンの支払いが困難になったために住居を手放す人達は数多くいます。経済競争が激しくなり、企業の存続が必ずしも約束されるものでなくなっている現在、住居購入の判断は、かなリスキーと言えるでしょう。それでも持ち家を持ちたい、と考える人はそれでもいいでしょうが、すくなくとも、国家政策としてそのようなリスクの高い道に国民を誘導することは、問題がある、と私は考えています。

あるいは、持ち家という選択がリスキーであるという意識が広まれば、自然と人々は賃借住居を選択するようになる。そうすれば競争原理から賃借価格も安くなる、と考える人もいるでしょう。私もそれが自然な流れだと思います。現実にも、そういう流れになっていくのではないでしょうか。ただ、住居空間というのは、最初に書きましたが、生存にとってかなり重要な意味を持っています。最低生存保障のひとつとして、国家がこれの提供に尽力することは当然のことだと考えますが、みなさんはどのように考えられるでしょうか。

ぶっちゃけ言ってしまうと、「民業圧迫だ。不動産収入や賃借収入で暮らしている人達をどうする気だ」と言われるのは覚悟しています。ここがこの話の最大の弱点でして(苦笑)。なにかうまい方法がないものか、とりあえず納得してもらえる方法がないか、という点が今後の課題です。

最後にひとつ。公営住宅があるのでは、と思われるでしょうが、あれは足りません。足りないだけでなく、入居条件が以外に厳しく、そう簡単には利用できない制度になっています。必要とする人達の元に届かない社会保障制度なんですよ。まあ、必要な人達の下に届かない保障、というのは、住居に限った話ではないですが。

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