2010年3月15日月曜日

社会 : 非実在青少年規制について考えたこと

すでにご存知の方も多いかもしれませんが、東京都で「東京都青少年健全育成条例改正」について、リアル/ネットを問わず、議論が沸き起こっています。詳細は、まとめサイトをご覧ください。このような東京都の動きについては、正直、「またか」という半分あきらめに近い気持ちを抱いてしまうのですが、これはこれで社会に生きるうえで必要なコストかもしれません。今回はそういう話です。

健全、という言葉に、私達はポジティブな印象を持ちがちです。規制に反対する人達でも、「社会が不健全であれば良い」などと考える人は、少数でしょう。ほとんどの人は、「恣意的、一方的な解釈を基準として、健全/不健全が決められる」ことに反対を表明しています。健全、不健全の意識は個々人に属するもので、誰にもそれを決めることはできない。多くの人が某かを「不健全なもの」と考えたとしても、後の歴史では逆の判断をされる可能性がある。反対派の多くはこの論理で反対をされています。私もまったく同意見なんですが…

それなら、「健全/不健全」という言葉は意味を持たないのではないでしょうか。人によって解釈が異なるのなら、その対象は「健全でも不健全でもないもの」ということになります。この世の中には、「健全なものは無く、したがって不健全なものも無い」と言ったら、あなたはどう感じるでしょうか。違和感を持ちますよね。当然です。「その対象とするものが健全であるといわれても、私は不健全と感じる」と思うでしょうし、その逆もあるでしょう。結局のところ、健全なもの、不健全なものをという「実体」はどこにもなくて、ただそこにあるのは、それを「健全と感じる意識/不健全と感じる意識」だけではないでしょうか。規制をめぐる闘争の本質は、けしてマテリアルをめぐってのものではなく、この「人の意識」をめぐってのもの、と言えます。あたりまえのようで、意外と見落とされがちな話が、これです。

私達は規制を考えるとき、実体を伴ったもの、具体的にはコミックや小説、映画や音楽といった「実体」にばかり目が行きがちですが、ほんとうの「敵」は、それを「敵視する視線」だということを忘れてはいけません。まあ、これは規制される側にいる人達にはわりと自明のことですが、規制する側の人は、それを見落としがちになっていることが多いので、ご注意ください。意識的にそれをされても困るんですが(苦笑)、無意識なものは、もっと困ります。

価値観と価値観の対決に終わりはありません。都知事が変わったとしても、どこか別の県に出版社等が移動したとしても、この問題は消えることはないでしょう。「我々の戦いはこれからだっ」と叫んで打ち切りになるのであれば、どんなにかよいのですが。

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