2010年3月4日木曜日

BI : 覚書のついでに考えたこと(その二)

労働というものがなんなのか、労働の意味について、という疑問に対する答えは、簡単なようでいて、意外と難しいものです。それは、労働が複数の意味を持っているからです。私たちは「働いて対価を得る行為」を労働と考えていますが、ほんとうにそれだけでしょうか。

ところで、労働ってどうやって成立しているのでしょう。狩猟型のものであれば、獣や魚を捕ること。農業なら土を耕して作物を作ること。あるいは、工作物を作って売ること。人の仕事を手伝ったり代行したりすること。何かを行って対価を得る、この一連の流れを私たちは労働と呼んでいます。一見自明のようですが、すこし考えてください。

働けば、必ず対価を得られるのでしょうか。魚を捕りに行っても得られないことはあるし、作物も育たないか収穫できない可能性はあります。物を作っても売れないかもしれないし、サービスを提供しても、相手が満足しなければ期待した対価は得られないかもしれません。労働すれば、必ず期待した対価が得られるわけではない。この当然の現実と、「働いて対価を得る行為を労働と呼んでいる」ことには、どこか齟齬があるように感じます。これは、どういうことなのでしょうか。

これは最初の定義がそもそも間違っていて、労働とは「行動に対する形で、対価を得ることを期待する行為」と理解するほうが、実情に合っています。常に、とは限りませんが、多くの場合、私たちは経験的に、ある行動を行えばそれに対する形で対価を得ることが期待できる、と知っているから働くのです。働いても対価を得られるかどうかわからないのでは、私たちは生きるための、生物としての最小限の行為しかしなくなるでしょう。人類が生み出した労働社会は、いわば、「働けば、それに見合った対価を得られるという期待を、最大限に保障する仕組み」と言えます。そういう仕組みの完成度を上げるために、私たちは働いてきた、と言えます。

労働社会の上に経済社会があるわけですから、経済の仕組みも同じ原理で動いていることになります。「その産業が、活動の結果として利益をあげることを期待する行為」が、経済と言えます。難しく考える必要はありません。ようは、株式投資の考え方がそれです。その会社/産業が、一定の利益を産み出すと期待するから、それを金銭的に支援する。まあ、言うなれば私たちは、さまざまなバクチの上に社会を築き上げている、と言えるでしょう。

ところで、私たちは経験的に、「働いても利益を得られないこともある」ということを自覚していますから、それに対処するための行為、リスク管理を行います。食料を余剰に作って備蓄したり、工作物を複数種類作ってニーズに応えられるようにしたり、サービスの利益を貯蓄したりするわけです。損失が出た場合の保障を売る保険も、そうですね。言うなれば、「対価が得られるかどうか確実ではないがゆえに、それを見越した活動を行う、あるいはそれを価格に転ずる」という行為です。さて、一番わかりやすいのは価格のほうなので、そちらを中心に据えますが、この「利益が得られるかどうか不明なため、その保障として設定されている価格の一部分」をなんと呼べばよいのでしょうか(これは宿題です)。

0 件のコメント:

コメントを投稿