2010年3月2日火曜日

BI : 覚書のついでに考えたこと(その一)

えー、このエントリでは「ベーシック・インカムについての覚書」を書いている途中で、色々と思いついたこと/考えたことを、ダラダラと書いていく予定です。J.M.GEARという人間の頭の中をさらけ出していく内容になります。極力、みなさんの考え方の参考にできる内容であることに努めるつもりですが、どうなるかわかりません(笑)。あと、不定期連載の予定ですので、毎日の更新は難しいと思います。ご容赦ください。

今回は、労働について。そもそも、私たちはなんのために働くのでしょう。「働かなければ生き残れないっ(CV:鈴木英一郎)」と考えるのが、ふつーの感覚でしょう。生活保護があるから働かなくてもいいじゃん、なんて考える人は、ほとんどいませんよね。私たちは(職業的)教育というカードデッキを持って、就業という契約の下で、それぞれの望みを胸に、バトル・ロワイアルを闘っているわけです(参照:仮面ライダー龍騎)。そうしないと負けてしまい、生き残れないから。適者生存の法則ですね。こういう残酷な世界ですから、その闘いを止めたい、という城戸真司さんのような人が出ます。誰?と思った人は、仮面ライダー龍騎を観てください。ベーシック・インカムとかに希望を託す人が多いのも頷けます。

しかしですね、これって少しおかしいんですよ。人の望みや願いというのは、多種多様です。とにかくお金が欲しい、お金で買える物はすべて欲しい、という欲求を持っているのならわかりますが、有名になりたいとか、スポーツなどの分野で一流になりたいとか、もっとささやかな、幸せな結婚がしたいとか、といった望みなら、死ぬ気で働く必要はないわけです。芸能界とかスポーツ競技の世界とかは競争社会ですから、「死ぬ気で」という意識は必要でしょうし、闘わなければ生き残れない、というのは日常的でしょうが、それでもある程度成功した人は、その状態を持続させる働き方に転じるか、後進に道を譲るわけです。もちろん、「闘わなければ生き残れない」というのは、あくまで言葉の上の話であって、精神論にすぎない、ということは理解しています。おかしいと思っているのは、働く必要性を考える上で、こういう発想が出てくることです。

ベーシック・インカムに限りませんが、社会保障の話をするときよく出てくる言葉が、「働かない人に金銭的保障をするのはおかしい」というものです。特にベーシック・インカムの場合は、「働かないのに金銭的利益を得れば、人は働かない」という反対意見が出てきます。出るだけじゃなくて、それが一定の支持を集めたりする。じつを言えば、私もその考え方はわかります。収入が得られるのであれば働きたくない、と考える人は、じつはけっこう多い。これは言葉を変えれば、「労働には金銭的利益を得ることしか意味は無い」と言っていることになります。お金をもらうことだけを目的に労働する、ということですね。

でも、労働の現場にいると、それだけじゃない、と感じるんですよ。

賃金を得るための労働であれば、与えられた仕事だけをやっていればいい。でも、多くの人達は、それ以上の成果をあげようとします。もちろんそれが評価に繋がり、最終的な利益に繋がると信じられるからですが、ほんとうにそれだけなんでしょうか。

それに、「金銭的利益を得られるのなら、人は働かない」と言っている人は、働くことそのものに価値を認めていないことになります。そうでしょう。お金を得られれば働かない、ということは、誰もほんとは働きたくなんかない、と言っているわけですから。しかし、これもほんとにそうなんでしょうか。

家族がいる人は、家族のために働くと答えられることが多い。とくに子供さんがいる家庭はそうですね。子供さんのため、というのは、正確には「子供の未来の幸せのため」でしょう。これはすごくわかりやすい話です。「子供がいれば、ベーシック・インカムの給付だけでも十分な収入になる。そういう人は働かない」という人に対する反論として、私はこれをあげることが多い。まあ、残念ながら実際の社会には色々と「問題のある親/大人」がいる、という欠点があるんですが。

この「未来の幸せのため」という部分は重要です。要求される労働以上に人が働こうとするのは、なぜか。という質問に対する答でもあるからです。評価されることが将来への利益に繋がる、という期待。これは、人に労働意欲を起こさせるためには、未来への期待を維持させる必要がある、ということです。未来への期待があるから人は働く意欲を失わない。逆に言えば、それが失われれば、人は働く意欲を失う。

いまの社会は、未来への期待を喪失した社会なのでしょうか?

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